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木村 快
一九二四年春、輪湖からは候補地が決まったことを知らせてきたが、資金はさっぱり集まらない。移住地建設宣言から一年近くたった一九二四年三月時点で、資金拠出に応じた者はわずか七人、金額にして一四、八〇〇円である。しかし、片倉製糸の片倉兼太郎(二代目)社長が県民にとって大事な事業であるから四分の一の五万円を出資することになっており、二〇万円には遠く及ばないが、使える金が七万円はあった。永田は土地購入を決断する。
本間総裁とは土地契約時に七万円を送金して貰うことを確認し、外務省提出の計画書にも永田の扱える金額として七万円を記載して、一九二四年五月、永田はブラジルに向けて出発する。ところが、永田がロサンゼルスに着いたとき、現地の新聞で本間知事が六月二十四日付で山梨県へ転出することになったことを知り、あわてる。資金も集まっていない現状で、宣言を発した後ろ盾の総裁がいなくなるのである。だが、運を天に任せるしかなかった。
アメリカに着いた永田はソートレークでモルモン教徒の植民の歴史を調べ、ワシントンではユダヤ人移住協会を訪ねている。アメリカ東部を追われたモルモン教徒や国家を持たないユダヤ人の移住問題は、ブラジルでの日本人移住問題を考える上で参考になると考えたからである。
永田がブラジルに着いたのは八月下旬である。バウルー市には輪湖と北原地価造が待っていた。八月二五日、バウルー領事多羅間鉄輔、永田、輪湖、北原の四人は候補地の検分に出かける。サンパウロ州は七月五日革命で政情が混乱しており、鉄道もアラサツーバより先へ行くことは出来ない。やむなく自動車二台を雇って、ミランダが造成した道路をたどって候補地へ向かう。順路としてはアラサツーバから原始林の中を西へルッサンビラ五〇キロ地区へ進み、そこから十三キロのミランダ事務所へ北上している。この当時、ノロエステ変更線の駅は五〇キロに出来ると考えられており、ここをミランドポリスと呼んでいた。
土地購入の話は順調に進んだ。しかし、シュミットの土地は訴訟問題を抱えていた。そこでミランダ側で訴訟問題を解決し、土地の名義をシュミットからミランダに書き換えた後に、ミランダから購入することに決定する。土地三、〇〇〇アルケール(7,200u)、代金七五〇コントス(邦貨約二〇万円)、三年払い。そこまでは順調だった。
ところが永田が心配したとおり、長野からは約束の日を過ぎても金を送ってこない。連日領事館に問い合わせるが連絡はないという。来る日も来る日も永田と輪湖は安ホテルのベッドに座って送金を待った。そうこうするうちにしびれを切らしたミランダは契約しないのなら他に転売すると通告してくる。
口実を設けて契約を引き延ばしているうちに、やっと県知事名で電報が届いた。ところが電文には「二〇万円移住地は断念して五万円の範囲で決着せよ」とあり、五万円が送られて来た。つまり五万円しかないので、本格的移住地は断念せよということである。信濃海外協会では本間知事が去り、梅谷知事は詳細な事情がわからず、永田不在の間に信濃教育会から派遣されていた専任幹事の藤森克が事務を放置したまま辞任。関係者の間では移住地建設中止の方向に動き始めていた。
しかし、今さら契約を破棄することは出来ない。永田は輪湖と検討した結果、三〇〇〇アルケールの土地を二二〇〇アルケールに縮小し、三ヶ年年賦で購入することにする。だが、それでも二万円足りない。『南米再巡』によれば、永田は協会の金とは別に南米土地組合の金があるはずだと問い合わせるが、らちがあかない。永田はアメリカの力行会員にも三〇〇〇ドル送ってほしいと電報を打っている。
そこで最後の手段として、永田は多羅間領事に確認の電報を打って貰えないかと相談する。多羅間は即刻外務省経由で長野県に対して「七万円なければ信濃海外協会の移住地建設は困難」と打電する。
民間団体の問題ではあるが、知事の名前で依頼した仕事であるから、無視することも出来ず、議論になる。その結果、梅谷光貞知事が「責任は自分がとる」と急遽二万五千円を追加送金している。多羅間と梅谷という思いがけない人物の決断で、ひとまず危機は乗り越えた。多羅間も梅谷も官僚らしくない官僚といわれた人で、多羅間は外務省を退職するとノロエステに農園を開き、移民の相談役を務めていたが、戦時中に敵国指導者として検束され、獄死した。梅谷はその後海外移住組合連合会の専務としてブラジルにおける国策移住地開設に貢献するが、政争に敗れ失脚している。
永田は一九二四年十月二〇日、サンパウロ市において、アラサツーバ郡サン・ジョアキン耕地内の土地二二〇〇アルケール、五五〇コントスを上院議員ロドルフォ・ノゲーラ・ダ・ローシャ・ミランダから購入する。長野県から借りた二万五千円は、永田が帰国後に返却している。
移住地の名称をどうするかについては永田と輪湖の間ではかなり議論になった。アリアンサとはポルトガル語で約束、協力を意味する言葉である。当初、永田は長野県への恩義に報いるために信濃植民地にしたいと考えていたようだ。(『北原地価造追悼集』)これに対して輪湖は、入植者は日本全国から集めようとしているのであり、入植者にとっても、またブラジル社会にとっても納得できる名称にすべきだと説得している。両者の間で激論になったことは、ちょうどその場に行き会わせたブラジル聖公会の伊藤八十二牧師が聖公会の機関紙(ブラジル聖公会教報第四十号・一九三六年)に書き残している。
その結果、『信州人の海外発展』(二八〇頁・一九七二年)では「村の名は輪湖君がアリアンサ(和親、協力の意)がよかろうというので、それに決定したのである。かくて輪湖君はアリアンサ村の名づけ親である」と書いている。和親という言葉は和親条約など、政治用語として使われていたもので、現在の言葉で言えば「共生」を意味する。
また、当時の日本人が使ってきた「植民地」という言葉をやめ、「移住地」という新しい用語を使うことにした。日本の植民地ではなく、移住者自身の意志としてブラジル社会との共生を掲げたのである。そこには海外興業株式会社がとりしきる移民社会に対して、新しい移住者の運動であるという意志がこめられていた。
アリアンサ移住地の建設は当時の移民社会に大きな波紋を引き起こした。とりわけ海外興業の幹部にとっては大変不愉快だったらしく、輪湖が永田と多羅間をイグアッペ植民地に案内したときの様子を伝える野村隆輔(イグアッペ植民地飼育場主任)の文章がある。
「海興本部と永田会長の間には何か経緯があったらしく、一切便宜を計らない児戯に等しい訓令があり、謹厳な白鳥所長は心痛のようであったから、多羅間領事は(私の)中学の先生であり郷党の大先輩ゆえ、自分が責任をとるという事にして万事黙認して貰った。」(『輪湖俊午郎追悼集』一九六〇年)
また『日本人発展史』(下巻)によれば、「アリアンサ移住地の建設にあたっては、当時在ブラジル同胞間に各種の非難・反対あるいは攻撃が起り、相当日本人の言論機関を賑はし、(輪湖たちは)四面楚歌の中で孤軍奮闘せざるをえなかった」とある。その内容を要約すれば次のようものである。
◎中流階級の銀ブラ(東京銀座をブラブラするという意味)植民に原始林の開拓など出来るはずがないと嘲笑するもの。
◎移住者は契約移民として耕地に入れ、労働の鍛錬を経た後に入植させるべきだとするもの。
◎信濃海外協会の独断的なやり方は日本移民の統一を欠き、またその傍若無人な態度はやがて排日の種子をまくおそれがある、と警告するもの。
◎日本から直接やってきた植民をアリアンサのごとき交通不便な奥地に入れることは、同胞を見殺しにする悲惨事である、と非難するもの。
これらの非難は当然、海外興業を中心とした移民社会指導者たちの論調であった。これに対して、輪湖はいづれも的はずれの論議だと反論している。
(輪湖の反論を要約)
知識階級の導入はアリアンサを健全な社会とするために必要なことであり、「協会の独断的振舞が排日の種子をまく」などということは時代錯誤も甚だしい。排日を引き起こす恐れがあるとしたら、それは日本移民がブラジルの健全な発達に逆行する場合であって、移住国と共に発展しようとするアリアンサ精神を否定するなら、海外の同胞はことごとく自滅のほかはないだろう。また、アラサツーバより奥の大森林の中に移住地を建設するのであるから、幾多の困難を伴うが、それにはそれ相応の用意があってのことだ。
海外移住は一つの民族運動であり、民族自らが創造する偉大な芸術でもある。日本人は辛抱強さに欠け、画題も決めないでカンバスに向かうようなところがあるが、そのため海外の同胞はどれほど苦労していることか。日本民族の持つ数々の優秀さも、辛抱強さがなければ、生れるべき芸術も生れ得ない。ある雑誌などは、わざわざ座談会まで開催して、この真摯な運動の邪魔だてをしている。
輪湖が移民会社系の多数派に対して一歩も引かず闘い続けることができたのは、直接ブラジル政界に対して共生を訴え、その支持を得たからだった。
土地購入後、ただちに開発にかからなければ農作業は一年遅れになるので焦ったが、なにしろ開発資金がない。おまけに永田は土地購入契約の日から高熱を出し、契約だけはなんとかすませたものの、以後二ヶ月間病床に伏すことになった。そこで、輪湖が永田の看病をしながら借金に飛び歩き、北原夫妻がイグアッペ植民地から大工の座光寺与一夫妻と当時十九歳だった伊藤忠雄青年を連れてきて、開発を始める。ろくな装備もなく、伊藤氏の話によれば、ほとんど野営に近い形で開発を進めたという。次いで在ブラジル力行会員の大山、田中、芦辺、柴野が参加し、入植者を一時住まいさせる収容所(集合住宅)の棟上げは翌一九二五(大正一四年)年四月二日だった。
北原地価造はもともと長野県庁の農業技師である。輪湖が土地を探している間に各地での開拓上の問題点を調べ、イタリア人農園で農地の開発やブラジルにおける作物の栽培などにたずさわり、準備を進めていた。開発が始まると、北原は自ら原始林に入って測量をし、土地の区分けを指示し、フォードのトラックを運転し、けが人の治療にあたった。
日本力行会の無償労働先遣隊、鈴木京寿(宮城県)、上条佐和太(長野県筑紫郡新村)、小川林(長野県諏訪郡富士見村)、篠原が到着したのは六月である。七月には岩波菊治(長野県諏訪郡四賀村)が到着し、以後、続々と到着。力行青年たちによる本格的な開発工事が進み始めた。
アリアンサは開設二年ですべて入植者が決まり、原始林の中にたちまち一千名以上の村が実現する。銀ブラ植民との非難攻撃に対し、あえて野球場を造り、テニスコートを造り、謄写版新聞を発行し、俳句・短歌などの文芸活動も盛んにすすめた。当時数ある日本人集団地の中で、ブラジル側作製の地図に書き加えられたのはアリアンサ移住地だけだった。
アリアンサ建設史は移民社会多数派によって無視され続けた。だが、移民百年を経た現在、日本人移住地として存続しているのはアリアンサだけである。この共生を掲げた先駆的な移住運動はアリアンサの風土として定着し、日本敗戦後の勝ち負け騒動に揺れることもなく、むしろ命の危険を感じる者はいかなる立場の者も受け入れ、保護した。この歴史はブラジル移住史においても、また日本の近代史としても見直されてよい。
昭和5年、信濃海外協会が入植者のために作成したサントスからアリアンサへ向かう鉄道図の部分図。ブラジル政府はアリアンサ最寄りの駅をノーバ・ニッポニア(新日本)と命名していた。