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ブラジルに新しい日系文化の風を

  共生の文化が 協同を育てる

昼食後は2時間の休憩。フルート、クラリネット、ピアノの練習をする人もいる。 子どもたちにはできるだけ日本文化の伝統を受け継がせたい。祭りの踊り。 昼間は灼熱の太陽の下で働く女性たちだが、夜は一変して演劇やバレエのレッスンに励む。
昼食後は2時間の休憩。フルート、クラリネット、ピアノの練習をする人もいる。 子どもたちにはできるだけ日本文化の伝統を受け継がせたい。祭りの踊り。 昼間は灼熱の太陽の下で働く女性たちだが、夜は一変して演劇やバレエのレッスンに励む。

  異文化との共生をめざした移住地

2005年12月ユバ・クリスマス 日本の民話劇「夕づる」
2006年12月 「華麗なるワルツ」ユバ・クリスマス
2007年11月 「そーらん節」 サンパウロ市

 アリアンサ移住地の創設者である永田稠(しげし)と輪湖俊午郎は二〇世紀初頭のアメリカで、移住農民の支援活動家として、また日本語新聞の記者として、日本移民排斥運動を身をもって体験している。そのため、彼らは経済的側面だけで出稼ぎ移民を送り出す日本政府の移住政策に強い危惧を抱いていた。
 日本人が異文化圏に移住するためには、まず先住者との共生の意志を明確にする必要がある。そして日本移民への偏見を乗り越えるためには異文化と共生できるだけの文化的自立が必要である。そこで永田は当時世界的に広がりつつあった弱者の国際連帯運動と言われた協同組合思想による移住地の建設を目指した。共生のひな形としての移住地を築くことによって、やがて出稼ぎ移民を含めた共生への道が開けると考えたからである。
 日本政府及び移住関係者からは全く相手にされなかったが、永田は日本で支持者を集め、力行会海外学校に学ぶ青年たちを教育し、ブラジル在住の輪湖俊午郎、北原地価造の協力を受け、アリアンサ移住地を築き上げた。大正デモクラシーと呼ばれた時代の末期だが、日本にはまだそうした新しい運動を可能にする力があった。こうして誕生したアリアンサ移住地には全国から新世界を夢見る移住者が集まった。移住者の中にはジャーナリスト、技術者、宗教家、芸術家がいたし、入植者の開拓を支援する多くの力行会の青年たちがいた。
 やがてアリアンサは移民社会における文化・スポーツの中心地となった。青年たちの中心に弓場勇がいた。弓場は関西球界でも逸材として知られる剛速球投手で、すぐさま青年たちを集めて野球チームを編成し、ブラジル一の強豪チームに仕立て上げた。

  文化の土台は個性の開花

 一九三三(昭和八)年、アリアンサが国策併合を呑むか、それとも独自の道を行くかで揺れていた頃、アリアンサの野球チームは遠征の途次、農民オーケストラを持つことで知られたラトビア人の農場に立ち寄った。戦乱のラトビアを追われたキリスト教徒たちが戦争未亡人や孤児のために設立した協同農場である。彼らはブラジル人社会との共生を心がけ、どのような来客にも最良の食事をすすめ、合唱や演奏でもてなしていた。アリアンサの青年たちは改めて共生・協同のあり方を教えられる。二年後、アリアンサに新しい型の協同農場が生まれた。
 弓場勇は、文化を育てるには芸術創造を農業労働と全く同等に重視しなければならないと考えた。見せるための芸術ではなく、一人一人の個性を開花させる芸術である。そのため、能力のあるなしにかかわらず全員で演劇や絵画に取り組んだ。美術家たちとの交流が生まれ、若い美術家たちは農場を支援した。
 一九六一年、日本から小原久雄・明子夫妻が加入し、農場の芸術活動は新しい展開を遂げる。小原久雄はブラジル美術界でも知られた石彫彫刻家だが、東京芸術大学時代は演劇グループで活躍した経験があり、道具製作、衣装、照明、美術など総合的に指導し、衣装もすべて自分たちでデザインし、制作する方法を訓練した。
 東京のバレエ団で踊っていた小原明子は子ども達にバレエを教え始めたところ、農場の子ども達が日本の子ども達に比べて非常に優れた資質を持っていることを知る。それは山野を駆け巡る子ども達は肉体的にも強靱であり、何よりも生まれながらの協同の感性を備えていた。
 音楽の面でも日本の作曲家中出良一が一九六四年から四年間滞在している、一九九七年には現代座の音楽を担当する作曲家岡田京子が滞在。近年は武蔵野音楽大学院のピアニストが滞在していた。

弦楽器に最適とされるブラジルの材木バウ・ブラジルで農場のための楽器を製作。 子どもたちにとって、楽器とは買う物ではなく、大人たちがつくる宝物。 屋外のスケッチ活動。週一度は絵を描いたり日本の習字もやってみる。
弦楽器に最適とされるブラジルの材木バウ・ブラジルで農場のための楽器を製作。 子どもたちにとって、楽器とは買う物ではなく、大人たちがつくる宝物。 屋外のスケッチ活動。週一度は絵を描いたり日本の習字もやってみる。

  少年少女合奏団の誕生

 二〇〇一年、アメリカで楽器製作にたづさわっている弓場健作が帰郷した折、子どもたちのために楽器をつくろうと言い出した。実はブラジルにはバウ・ブラジルという弦楽器に最も適した木材があるという。早速楽器製作プロジェクトが発足し、以後、毎年ヴァイオリン四台、チェロ二台ずつ製作している。楽器が完成するまでには二年かかるが、子どもたちは、その完成を固唾を呑んで見守っていた。
 サンパウロ市の専門家が協力してくれることになり、二〇〇二年にはユバ少年少女合奏団が編成され、近隣の学校、老人施設、記念イベントに出演するようになっている。

  協同の心を培う文化

 ユバにとって、芸術することは趣味ではなく、人間の生きる証である。村おこしのために生まれた農場であるからには、ユートピアを建設することではなく、村の住民が集まって心を響かせ、協同の心を培うことが大切な使命である。
 ブラジルでも日本でも、モノと金中心の社会では若者たちは都会へ出て行き、地域は高齢化し、消滅しつつある。アリアンサにおいても、若者の流出は進んでいる。それでもユバが存在することで、アリアンサでは青年団活動がまだ持続している。今、世界は共生の時代へと転換しなければならない時代を迎えている。
 弓場勇は一九七六年に七十歳で没するが、「土に根ざす者こそ最もすぐれた芸術家であるべきだ」とする夢は、今や新しい風となって吹き始めた。

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