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アリアンサ運動の歴史第二部
  共生の大地を支えた青年たち

木村 快

 五、南米農業練習所の開設

  第二アリアンサ・第三アりアンサの建設

 一九二六年半ばには移住地の分譲は完了した。それでもまだ移住希望の申し込みが続き、信濃海外協会と鳥取海外協会が共同で第二アリアンサを開設することになる。さらに信濃と富山移植民協会が共同で第三アリアンサの開設が決まる。総面積一八、八八四へクタールである。
 しかし、鳥取海外協会も富山移植民協会も信濃が開発を準備するという条件で協定に合意したもので、一切の受け入れ準備は信濃海外協会、つまり力行会が責任を負わなければならない。実際の経過については次回に詳述するが、これはアリアンサを承認しようとしない政府に対する対抗策であり、いずれ政府も承認せざるを得なくなると読んだ永田稠の賭であった。
 そこで、力行会はアリアンサとその郊外に二つの農業練習所を開設し、練習生として会員を送り込むことになる。ブラジルは家族移住が原則であったが、アリアンサに期待を寄せるバウルー領事館の多羅間鉄輔領事はブラジル側を説得し、例外的に単身移住の導入を認めさせた。海外学校の卒業生はまずこの二つの農場に入所し、ここを足場に各地へ巣立っていくことができた。アリアンサの各事務所、産業施設、売店、直営農場の職員、また不在地主の農園の耕作請負などでアリアンサに残った人々も多い。

  力行農園

 南米農業練習所の一つ、力行農園はルッサンビーラ駅とアリアンサ移住地との中間に位置する二五〇ヘクタールの農園である。ここには先遣隊のリーダー小川林と同期の細川末男(一九二一年組)が責任者として配置された。次々送り込まれてくる青年たちはひとまずこの力行農園かもう一つの渡辺農場に入り、農作業の訓練を受け、自立していく。力行農園には常時一〇名前後が滞在していたようで、正確な記録は残されていないが、『ブラジル力行会四〇年史』には六二名の名前が記されている。
 この農場は駅からアリアンサへ向かう中継地としての役割を果たしていたが、一九三五年に鉄道の経路が変更されて駅が廃止されたため、次第にアリアンサとの関係も薄くなり、責任者の細川が病気で倒れたこともあり、戦後廃止された。

  協同化を目指した渡辺農場

 もう一つの南米農業練習所は第三アリアンサの渡辺農場に開設された。渡辺農場は力行会の支援者でもあった渡辺昭が五〇〇ヘクタールの土地を購入し、農場の開発・運営を力行会に委託したもので、力行会関係者の間では南米農業練習所という名称より渡辺農場と呼ぶのが一般的だった。
 一九二八(昭和三)年五月に開設され、日本力行会の幹事だった宮尾厚が自ら所長となり、青年たちを引き連れて広大な原始林の中に入り開発を始めた。特別に拘束規定はなく、到着早々おそれをなして逃げ出す者もいたし、長くても半年か一年で入れ替わるから、経済的には成り立たず、宮尾は苦労したようだ。
 やっと畑を拓き、コーヒーを植え始めたが、運悪く、翌昭和四年は世界大恐慌のはじまった年で、コーヒー価格が暴落し、以後低迷した時期が続く。資金状態の詳細はわからないが、独立採算だったようで、宮尾としては日本からの送金もなく、農場の経済的自立を模索しなければならなかった。
 どうにも動きがとれなくなったころ、たまたま日本から視察に来た福島高等商業の榊原教授の講演会があった。講演のテーマはロバート・オーエンやサン・シモンのユートピア論についてだった。もともと宮尾は産業組合運動(ロッチ・デール原則)に強い関心を持っており、それは思いがけない出会いだった。青年たちも強い印象を受けたようで、それがきっかけで本格的な協同組合農場を志向するようになる。そして、ついに自家発電設備を備え、製材所も稼働するようになり、全アリアンサの建設資材供給基地としての役割を果たすようになった。

◎力行会員のアリアンサ移住者数

参照文献で確認できる会員を年度別に集計すると次のようになる。移住年が不明な人物もかなりあるので、実数はもっと多いはずである。
年度 
1924(大13)1
1925(大14)17
1926(大15)23
1927(昭02)15
1928(昭03)52
1929(昭04)15
1930(昭05)33
1931(昭06)20
1932(昭07)9
1933(昭08)21
1934(昭09)23
 229

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