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アリアンサ運動の歴史第二部
  共生の大地を支えた青年たち

木村 快

 岩波菊治と中川権三郎

岩波菊治 アリアンサ開発先遣隊の一員、岩波菊治は一八九七(明治三〇)年、長野県諏訪郡に生まれる。後年ブラジル短歌の父と呼ばれた歌人である。岩波はアララギ派短歌の創始者島木赤彦の弟子であった。たまたま永田稠が長野県諏訪郡で代用教員をしていたときの校長が島木赤彦であったこともあり、一九二三(大正十二)年、力行会海外学校へ入学。卒業後は小川林と同様本部スタッフを勤めていたが、アリアンサ開発先遣隊に志願。日本を出発するときは、島木赤彦から「ブラジルでも短歌普及のために努力してほしい」と励まされ、終生、ブラジル短歌の普及につとめた。
 農業の傍ら率先して自治会役員を務め、一九三四年にアリアンサが国策会社へ併合された後も、村の自治を守ろうと自治会長を務めるが志ならず、一九三七年にアリアンサを去る。


 国遠く行きても歌を励めよと
       のらししみ言忘るべきかは(赤彦先生を思ふ)

 三十町歩の原生林買い得しと告げまさば
       父母はいかにか喜ばすらむ

 おのずから湧き来たる涙すべもなし
       我子の墓辺に草むしりおり

 ふる郷の行き詰りたる百姓に
       比べ思へば安けしわれは

*アリアンサは青年たちを農園労働者として就労させ、三、四年働くと自分で土地を購入できるよう配慮していた。岩波はコーヒー栽培四年契約で入植し、三年目には働いた金で土地を購入している。だが、不幸にして愛児を赤痢で亡くしている。
 四首目・金融恐慌下の日本で農民が苦境に陥っていることに心を痛め、郷里に自作のコーヒーを送っている。

〈一九二九年、力行農園の仲間を歌ったもの〉

 虹のシャツの色さえ褪せにつつ
       草とりておる中川権三郎

 我が友の藤田の勝治アロースの
       最中に立ちて草とりはじむ

 華々しく渡航者列伝に名をのせし
       その幾人かここに来たりけむ

 末男らが血もて汗もて拓きたる
       珈琲園ぞ遠く連なる

 越後人行方正治郎この山に
       力の限り働きており

*「渡航者列伝」とは『力行世界』で毎年ブラジル渡航者を紹介する頁のタイトル。
*「末男」は力行農園責任者細川末男のこと。細川、中川、藤田、行方はともに海外学校で学んだ仲間である。

岩波菊治 中川権三郎は一九〇三(明治三六)年、山形県最上郡で生まれる。海外学校一九二四年組。一九二九年に南米農業練習所力行農園へ。
 力行農園退所後は郷里で新潟新報に記事を寄稿していた経験があり、アリアンサで弓場勇らと新聞・アリアンサ新報を発刊。村作りのあり方に対しても辛口の批評提言を行い、国策会社併合問題で混乱した時期には移住地の自治統一の世論を高めるために努力。アリアンサの運営権が国策会社に移った後はアラサツーバ市へ移転、紙名も日伯共同新聞とあらため、移住者側の視点でサンパウロ中央紙と互角の論戦を展開している。
 長男の中川誠は現在コムニダーデ・ユバの顧問弁護士。



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