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アリアンサ運動の歴史
第三部  ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

*引用文献について
 次の文献は頻繁に引用するので文献名、略名と該当ページだけを記載。他は各項の末に(註・)で記載。
『ブラジルにおける日本人発展史・下巻』→『発展史・下』 ブラジルにおける日本人発展史刊行委員会・昭和十七年
『創設十年』 アリアンサ移住地創設十年編纂委員会編・昭和十一年
『頌寿記念』永田稠著・日本力行会・昭和四十年

一、海外協会中央会の設立と移住組合法運動

  歴史的背景

 一九二三(大正十二)年に海外協会中央会が移住組合法の運動を開始してから、一九三八(昭和十三)年にアリアンサ移住地が海外移住組合連合会(現地機関・ブラジル拓植組合)に併合されるまでの十五年間は、大正デモクラシーと呼ばれた政党政治全盛期から、軍部の台頭がはじまり日中戦争へと転換していく日本近代史上最大の激動期である。この時代は第一次世界大戦後の不況・関東大震災・金融恐慌とつづく混乱期であり、政治的にも政党は党利党略で明け暮れ、一九二四年の清浦奎吾内閣から、加藤高明、若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸、若槻礼次郎(第二次)、犬飼毅と次々内閣が交代し、そのたびに移民政策は変更され、アリアンサは翻弄されつづける。

 政党内閣最後の犬養毅首相は昭和七年、五・一五事件と呼ばれる陸海軍将校・士官候補生等の襲撃で暗殺される。代わって斉藤實軍人内閣が出現すると移民政策はブラジルから満州へと転換し、満蒙開拓武装移民団の送り出しがはじまる。

  海外協会中央会の設立

 海外移住組合法制定については、『日本人発展史』(P.31)に次のような記述がある。

資料1 「海外移住組合法制定の由来」

 今日アリアンサ移住地の経営は、挙げて『ブラジル柘植組合』の管下に移ってゐるが、抑も『ブラジル柘植組合』の母体たる海外移住組合法の制定さへ、実は同移住地の進展につれ、時の勢を得て具現化されたものと称するも失当にあらざるベく、而かも楽屋の化粧師は殆ど全部アリアンサ関係者若くは之が共鳴者であった。それ故もしアリアンサ移住地の建設が無かったならば、恐らく現在ブラジルに於ける邦人移住地の眼であり口である所のティエテー、バストス、トレス・バラスの如き存在は考へられなったであらう。

 長野県で信濃海外協会が設立された一九二二(大正十一)年には、すでに広島、熊本、和歌山、三重、岡山、防長(山口)の六海外協会があり、信濃海外協会は全国で七番目の設立であった。それまでは移住に関する諸問題は各協会がそれぞれ独自に主務官庁である内務省、外務省に陳情して解決をはかっていたが、信濃が設立されたのを機に、信濃の呼びかけで連合組織を設立することになり、一九二三(大正十二)年二月九日、前記七協会役員と、所属する地方長官(知事)によって、日本海外協会中央会が設立された。

 総裁には大木遠吉伯爵、会長に今井五介貴族院議員、副会長には津崎尚武衆議院議員、監事に永田稠、宮下琢磨が選任されている。事務所は今井会長の肝いりで、東京駅前に当時竣工したばかりの丸の内ビルの四階に置かれた。オフィスビルであると同時に、店舗、レストランなどを備え、東洋一として話題を集めた丸ビルだけに、物珍しさもあって、中央会事務所は移住関係者、内務省、外務省の役人などが顔を出すたまり場となり、海外移住についての情報交換や懇談の場、移住問題研究会の役割を果たすようになる。

今井五介  今井五介は日本の外貨稼ぎの筆頭であった絹産業の大手、片倉製糸の副社長であり、創業一族の中心人物である。片倉製糸は当時ニューヨークに支店を開設したばかりで、中南米の情報収集という点からも海外協会の活動を支援していた。

 津崎尚武は鹿児島県出身だが、長野県の視学(教育長)を務め、長野県の海外発展教育運動を指導した人物である。永田稠との縁は、大正四年にアメリカから帰ったばかりの永田を海外事情の講演に招いたことからはじまっている。その後、長野県選出の衆議院議員となり、このときは政友会に属していたが、翌年の政友会分裂では政友本党に所属している。

 中央会の取り組んだ事業としては全国各県に海外協会を設立するための支援、各海外協会との連絡、移住情報の収集と普及、主務官庁との連絡、渡航指導者の育成などがある。その活動を中心的に支えたのは、信濃海外協会であり、永田が会長を務める日本力行会であった。

 中央会の懇談グループには津崎尚武をはじめ、守屋栄夫内務省社会部長、石射猪太郎外務省移民課長、白上祐吉東京府副知事らがいた。これらの人々はもちろん公的な形で表に顔を出すことはなかったが、アリアンサ運動に関心を持ち、それぞれの立場から移住事業の発展普及を支援していた。後に神戸移住センターと呼ばれた神戸移民収容所の設立も、この懇談グループの中から生まれたものである。しかし最大の関心事は海外移住地建設を助成する移住組合法の実現だった。(資料1参照)

  一九二三年・産業組合法活用の拒否

 アリアンサ移住地は当初民間からの二十万円の寄付金で計画されていたが、開設に踏み切ったときの資金は七万円程度に過ぎなかった。それでも移住地建設に踏み切ったのは、産業組合法の活用を意図していたからである。産業組合法は零細企業や民間人が公共性のある事業を手がけるとき、協同組合を設立することで中央金庫から低利融資を受けることのできる法律で、一九〇〇(明治三十三)年に制定されている。

 当時、永田稠の中学時代の後輩に産業組合法作成の中心人物であった農商務省農事課長の小平権一がいた。小平の見解によれば、それは可能なはずであった。当初、移住地建設には消極的だったと言われる本間利雄長野県知事が移住地建設宣言に踏み切ったのも、産業組合法の活用が可能だと判断されたためだと考えられる。

 そこで一九二三(大正十二)年、中央会は産業組合法に基づく各海外協会の信用組合を設立する方針を立てた。その第一回としてまず信濃が「信濃土地購買利用信用組合」と「南米土地組合」を設立し、申請を出した。ところが、長野県では問題ないとされたものが、主管の農商務省へ回ったとたん「産業組合法は各県知事支配下においてのみ成立するもので、海外移住地に適用することはできない」とする強力な反対意見が起こった。小平は省内説得に努力するが、当時産業組合中央金庫に出向していたため、思うようにはならず、最終的に農商務省は全府県に対して、「今後同種の申請は一切認可しない」という通達を出している。産業組合法の権威と云われた小平の意見が通らなかったのだから、省内でもトップレベルの反対があったと思われる。

 やむなく二つの信用組合は解散せざるをえなかった。そのため長野県からの移住者の払込金の扱いは信濃海外協会扱いとし、全国からの入植者に対しては会社法による「南米土地組合」を設立して対応することになる。当然、融資を受けることはできなかった。

 しかし、 海外移住地の建設は民間の資金力だけでは困難であり、低利融資を受けられる産業組合法と同等の法律が必要である。中央会は再び小平権一に依頼して単独法として「移住組合法案」を作成し、津崎尚武がこれを議会へ建議することになる。

  第五十議会の健議案からはじまる

 一九二三(大正十二)年という年は九月一日に関東大震災が発生、震災復興内閣と呼ばれる山本権兵衛内閣が成立する。しかし、同年暮れに摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助に狙撃された虎ノ門事件が起こり、山本内閣はその責任を取り、翌一九二四年一月七日に総辞職する。

 その後を受けて清浦奎吾内閣が成立するが、清浦は政党を無視し、貴族院議員だけで内閣を組織したため、政党の反発を受け、「政党内閣樹立と普通選挙運動の実施」を掲げた政友会、憲政会、革新倶楽部による第二次護憲運動が起こる。このため、清浦内閣は五ヶ月の短命で終わる。

 代わって加藤高明内閣が成立する。憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の三派連合内閣で、津崎の所属する政友本党はこの時点では野党となる。

 一九二四年の十月にいよいよアリアンサ移住地の建設がはじまるが、「ブラジルに新しき村を」のキャッチフレーズは大きな話題となった。すでに一九一八年に白樺派文学者武者小路実篤らが理想郷を目指して、宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を開設し、話題になっていたからである。こうした気運を背景に、中央会は移住組合法案のパンフレットを作成し、政界、官界に普及陳情の活動を展開する。

 翌一九二五(大正十四)年の第五十議会に津崎は移住組合法を建議案として提出する。建議とは議会から政府に対して提案したり確認したりすることを言うが、津崎の建議する「移住組合法」は産業組合法の「販売」「購買」「利用」「信用」のほかに新たに「移住」を付け加え、海外だけでなく国内の移住にも適用できる組合法としていた。健議案としては問題なく通過し、津崎は政府に対してこうした移住組合法を制定する意志はないかと質問している。これに対して若槻内務大臣は「政府にはまったくその意志はない」と答えている。

 次の年、一九二六年の第五十一議会では法律案として上程、反対者もなく、問題なく通過すると思われていた。だが、この年の議会は大阪の松島遊郭移転問題で、土地会社から憲政会の幹部箕浦勝人と、政友会の幹部岩崎勲に多額の賄賂が贈られていたことが発覚、大きな政治問題となった。議会は与野党入り乱れての泥合戦になっている。審議は遅れ遅れになり、政府案が終了し、いよいよ「移住組合法」の審議に入り、津崎の提案理由の発言が終わったところで時間切れとなり、審議未了となる。

 しかし、組合法自体の制定は次の議会では問題なく通過すると見込まれ、各海外協会では動きが見え始めた。この段階で動き出した鳥取県、富山県、熊本県での動きは次節で述べる。

  第五十二議会、政府案の浮上

 第五十二議会が招集されるのは一九二六(大正十五)年十二月二十四日だが、翌日大正天皇が病没、年号は「昭和」と改元される。年が明け、昭和二年初頭、移住組合法案は与党憲政会、野党政友会とも一致して衆議院に提出し、委員会付託となる。

 ここで突然、政府の「海外移住組合法案」が浮上してくる。政府でも移住者の増大を受け、移民業務を従来の内務省社会局から外務省へ移管する必要があった。そこで外務省移民課長の石射猪太郎から「これまでの〈移住組合法案〉の頭に〈海外〉をつけてほしい。そうすれば政府案として上程し、政府予算一八〇万円をつけることができる」と永田稠に提案する。そこで、永田、津崎、石射、内務省の守屋栄夫の間で協議、委員会としても政府案として上程することになった。

 石射猪太郎は一九二四年、加藤高明内閣の外相に就任した幣原喜重郎によってアメリカから呼び戻され、通商第三課長として中南米諸国への移民業務を担当していた。アメリカ在勤時代が長く、永田稠の移住思想についても共感を持っていた。

 中央会の「移住組合法」と政府の「海外移住組合法」とのちがいは、対象を国内も含めるか海外だけに限定するかの違いにすぎなかった。外務省が〈海外〉の文字をつけたかったのは、従来移民問題の主管は内務省であり、できるだけ内務省の介入を避け、独自に遂行できる法律にしたかったようだ。この時点までは中央会及びアリアンサの願い通りの法律だった。

 衆議院の国会答弁で、「海外移住組合法の主務大臣は外務大臣か、内務大臣か」との質問がされているが、この時点ではまだ決まっておらず、政府は施行規則の公布までに決めると答えている。こうして一九二七年三月二十九日、法律第二十五号として海外移住組合法は成立する。あとは五月一日の施行規則を待つだけだった。

 参照文献
 『力行世界』昭和二年三月号所載、永田稠「海外移住組合法の生い立ち」
 同六月号所載、津崎尚武「海外移住組合法制定まで」
 同六月号所載、守屋栄夫「海外移住組合法に就いて」
 信濃海外協会機関誌『海の外』大正十一年十二月号所載、永田稠「南米巴西土地購入組合私案」。これが「南米土地組合」の原案と思われる。「巴西」とはブラジルのこと。


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