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アリアンサ運動の歴史
第三部  ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

四、「一県一村」から「一括大移住地」へ

  梅谷専務理事の渡伯

 海外移住組合連合会が一県一村移住地政策を掲げてスタートしたことは前述した。十分な準備もなく、ブラジルについてまったく知識を持たない内務省役人が突如として開始した事業である。この組織はさまざまな問題を引き起こし、さらに大きな変転を遂げることになる。

 専務に就任した梅谷光貞は長野県知事時代にアリアンサを支援しており、植民事業の専門家としてもアリアンサには強い関心を持っていた。同時に、外務省の危惧に対しても、内務省案の無謀さについても知り抜いていた。その上で、連合会専務を引き受けるに当り、相当な裁量権を与えられていたと思われる。

 梅谷は秘書にサンパウロ藤崎商会社員の武石潜蔵を置き、スタッフとして領事官経験者の斉藤和を選んでいる。しかし、肝心な移住地建設の専門家としては永田稠の協力が必要だった。永田稠の『頌寿記念』(P.74)に、梅谷から参謀がほしいと云われ、「輪湖君以外にありません」と答えたというくだりがあるから、おそらく永田を通して、海外興業や外務省とは別な視点からのブラジル事情、アリアンサの今後の方策などについても検討したと思われる。

 梅谷は参謀役にアリアンサ移住地主任・輪湖俊午郎を現地理事として迎える。輪湖を現地理事にすることは、当然対立関係にある移民会社海外興業や内務省内の一部から反発があったと思われるが、将来のアリアンサ救済と、現地外務官僚との協力関係を維持するためには輪湖の経歴と実績が必要との判断があったようだ。

 輪湖は一九二七年十二月十日にリオ・デ・ジャネイロに梅谷一行を迎えている。梅谷は到着早々、輪湖とともに各地を視察して回っている。おそらく、輪湖がそれに先だって下調べに歩いていたと思われる。

 梅谷のブラジルにおける足跡は昭和十五年に『ブラジルに於ける日本人発展史』を編纂するため日本に招聘された輪湖俊午郎が、東京で自費出版した『流転の跡』に「梅谷光貞氏と海外移住組合」と題した一文がある。輪湖はこの一県一村式の移住地建設について次のように書いている。

 「その計画の内容はさすがに内務省の役人にふさわしく、きわめて一方的であり、まるで日本領土内で実行するかのような態度であった。その結果、サンパウロ総領事館の反感を買い、せっかく重任を負ってブラジルへやってきた梅谷理事は、ブラジルへ着くなり、いきなり難礁に乗りあげなければならなかった。」(『流転の跡』輪湖俊午郎著・自費出版・昭和十六年 P.260)

 しかし、輪湖はアリアンサのために梅谷の助力を求めなければならず、サンパウロ総領事との間に立って苦労している。


  一県一村方式へのこだわりと日本側の混乱

 外務大臣を兼任する田中首相から「ブラジルに毎年八県の移住地をつくるから土地購入の準備をせよ]]との指令を受けたサンパウロ総領事館は相当驚いたようで、本省との間に何度も公電が交わされている。有吉大使、赤松総領事からは繰り返し、日本の内務大臣を会頭とする組織がブラジルで土地を購入することは不可能であること、便宜的に個人名義で購入してもこれが表面化すると排日の気運を招きかねないこと、また一県分五〇〇〇ヘクタールずつの分割は物理的に不可能であることなどの反対意見が送られている。

 梅谷も現地で検討した結果、内務大臣を会頭とする組織をブラジルで登記することは得策ではないこと、また、各県独立の組合が移住地を運営することも現実的ではなく、各県組合は日本内地にとどめ、ブラジルでは大移住地方式とし、全県一括で到着順に入植させたい」と提案している。

(資料6)<憲政資料室収集文書1389-13>
 外務省公電  昭和三年一月十五日
第四号の一 梅谷より田付(理事長)へ

 赤松総領事、多羅間領事、青柳嘱託と慎重熟議を遂け、当地の実情をも参酌し尚且つ有吉大使の指揮を仰ぎ、当聯合会の当地に於ける経営方針を、左の如く決定実行せんとす。御承認を請ふ。
一、内務大臣を会頭とせる聯合会の定款を当地に於て登記するは、政治的に見て不得策なり。依つて当地に於ける聯合会の事業執行機関として土地会社を設立する事は、将来永久の策として適当なりと認む。其の株主及役員は凡て聯合会若くは組合関係者のみとす。尚其定款の要領は別紙第五号の通り。
二、(略)
三、当地に於て各府県独立の組合を組織し、各独立して土地の経営に当るは弊害多くして利益少し。当地に於ては新設せんとする土地会社の名に於て統一管理し、以て其の事業の遂行を期せんとす。従て各府県の組合は単に内国的のものに止まらしむ可し。

第四号の二
四、移住地の府県別の区画を設けず。今後移住都市準備の整ひたる土地より到着順に入植せしむ。尚土地の割当は移住者相互の任意の協定を原則とし、協定成立せざる場合は抽籤に依る。
(以下略)

 しかし、日本側からは「あくまで既定方針通りに進めよ」との要求が繰り返し返電されている。
 梅谷はブラジル到着後の一九二八年一月二十五日、輪湖の案内で赤松総領事、青柳郁太郎嘱託らと開設四年目のアリアンサ移住地を視察している。その結果、各県によって経営力量も違うことを考えれば、形式的な一県一村方式は非現実的であり、アリアンサ同様一括墾植にすべきだと考えていたようである。アリアンサは共営方式であるからどこの県からでも入植者を受け入れることができるし、この際、アリアンサを連合会に組み込むことでアリアンサを救済することもできると考えた。これは同行した総領事や青柳嘱託も同意見であったと思われる。

(資料7)<憲政資料室収集文書1389-13>
 外務省 赤松総領事来電 梅谷より田付(理事長)へ
           (一月二十五日アリアンサに於て)


 色々物色中なるも、今直に適当なる移住地を得ること困難なる処、
此の度赤松総領事、多羅間領事、青柳嘱託と共にアリアンサ移住地の実況を視察、調査するに地味良好、
交通便利、衛生状態亦佳なる上、既に相当の施設あり。
尚且未処分の土地相当に存在し、外に接続地五百五十アルケイル買収し得る見込なるを以つて、
此の土地と施設物とを利用して移住組合員の入植を試むるは、目下の急務に応ずる最良の方法なりとの結論に一致し、
又当地アリアンサ関係の理事者の意見を徴するに何等異議なし。
依て直に長野、鳥取、富山、熊本の四県をして移住組合を組織し聯合会に加入せしめ、
其の所有地と買収の見込ある接続地とに対して
右四県及昭和二年度成立の八組合の組合員中より百家族乃至百五十家族を
今より三月迄の間に於て渡航せしめ度、御指揮を請ふ。

 しかし、連合会からは「それは日本側の事情から見て困難。四協会の問題は検討中であるから、とにかく当初の方針通り、各組合専属の土地を至急見つけてほしい」と返電している。

 田中内閣が一県一村方式にこだわったのは、各県に海外植民地をつくらせることによって国民の植民地移住熱を引き出すことが狙いだったようで、東方会議に見られる「満蒙における植民地建設」へつながる気運を根付かせたかったからだろう。事実、海外移住組合は新潟・栃木・宮崎の三県を除く四十四府道県に組織され、後の満州移住の基盤づくりに貢献したと見ることができる。

 輪湖俊午郎の『流転の跡』にも、「禍せる内務省案」と題して「昭和二年内務省は海外移住組合法案の議会通過を見るや、疾風的に各県を慫慂(しょうよう)して組合の設立を促がし、これが聯合機関として中央に海外移住組合聯合会を組織せしめた。而して移住組合の事業地を差し当りブラジルと定め、年々新たに八組合を予算化して全府県に其設置を計り、これ等地方組合に対しては聯合会を通じて、土地購入費の貸与其他の助成をなすべしと云ふにあった」と書いている。昭和十六年の文章であるからあからさまな批判ではないが、ここで使われている「差し当たりブラジルと定め‥‥‥」にはブラジル移住のために始めたものではないという含みが感じられる。

 結局、梅谷は帰国した上で方針を再検討することとし、とりあえず梅谷個人名義で密かに土地の購入を開始する。

 一方、各県で組織された組合側はあくまで移住地経営の主体は自分たちだと思っているから、連合会が購入した土地のうち最も優良な一区画五〇〇〇ヘクタールを獲得しようと、移住地経営主任を待機させていたし、気の早い組合は移住者家族を神戸へ送っていた。しかし、土地購入についてはまだ調査段階であり、日本の政府機関がブラジルで土地を購入することを表沙汰にできない段階である。連合会本部からの再三の要求にもかかわらず、梅谷は受け入れを認めなかった。県組合は連合会の怠慢を非難し、本部は本部で、「神戸滞在中の県組合移住者をこの儘にしておいては、地方組合は混乱に陥り、連合会の信用が地に墜ちる。そういうわけで今回彼ら移住者を乗船させることにした。到着の上はそちらで宜しくご配慮ねがいたい」と電報を打ってくる始末だった。


  田中内閣の退陣・一県一村方式の中止

 梅谷は昭和三年八月にいったん帰国する。日本側の事情はかなり変化していた。主管大臣である鈴木喜三郎が退陣し、内務大臣には望月圭介が就任したばかりだった。鈴木は二月に行われた第一回普通選挙でなりふり構わず選挙干渉に全力を挙げたが、それは逆効果となり、政友会は民政党をわずか一議席上回っただけに終わり、徹底的な抑圧を試みた無産政党からも八名の議員を誕生させた。その結果鈴木は詰め腹を切らされ辞任したのだった。

 梅谷は連合会総会で一県一村方式は実現不可能と報告する。また、土地購入機関についても連合会名義にこだわらず、ブラジル国法に基づく「有限責任ブラジル拓植組合」を設立し、開設移住地はブラジル拓植組合直営の混植とする方針を打ち出す。

 これに対しては予想通り強硬な詰問や反対意見が相次いだが、梅谷の強い姿勢に、結局はふしょうぶしょう承認するほかなかった。梅谷が連合会設立当初の根本方針に逆らって不可能論を押し通すことができたのは、鈴木の退陣で内務省が混乱していたことも幸いしたと思われる。こうして一県一村移住地政策は連合会発足から一年で挫折してしまった。同時に各県関係者や連合会内部では、梅谷と輪湖は村建設をつぶしたとする批判が展開されることになる。

 翌昭和四年三月、梅谷は再びシベリア経由でブラジルに渡ると、直ちにバストス、チエテ両移住地を一括大移住地として造成し、入植者受け入れを開始した。海外興業との協力関係がむづかしかったため、チエテ移住地の開設には輪湖が自ら移住地開設主任となり、アリアンサから力行青年を呼び寄せて造成に当たっている。

 移住地経営が連合会の直轄となったため、地方組合では移住地経営主任として任命した「任務者」をどうするかで頭を痛めた。やむなく各組合の利害を代表する指導者として、移住者と共にバストス、チエテの両移住地に送り込んだ。しかしブラジルの事情もわからず、汽車の切符一枚買うことのできない彼らに移住者の指導などできるはずはなかった。だが、彼らは自県組合入植者に対する面目もあり、次第に連合会の移住地経営主任と対立するようになる。移住者の利害をあおり、移住地を混乱に陥しいれるトラブルが続発した。梅谷は彼らをどう遇するかに一番頭を痛めたという。

 この任務者制度は廃止されることになったが、その反発で、日本ではパンフレットや報告書で、移住地および梅谷理事への批判が繰り広げられた。またブラジル側でも移民会社系の批判者たちがこれに同調し、「梅谷は輪湖に乗せられて、移住組合の村建設をつぶした」との非難が繰り広げられる。

 輪湖は当時を回顧して、「その就任から退任に至るまで、梅谷理事には一日として心安まる日がなかった。しかも絶えず浴びせられる世俗の誹謗の中に身をおき、ただひたすらに移住地建設の責任を遂行したのである」と書いている。

海外移住組合連合会事務所での記念撮影

 1929(昭和4)年3月27日、「有限責任ブラジル拓殖組合」が設立された翌日、サンパウロ市リベロ・パダロー街の海外移住組合連合会事務所での記念撮影。
原版は6センチ×6センチのブローニー版の焼き付け写真だが、裏に梅谷自筆で人物名が記入されている。

 梅谷光貞専務理事を中心に左側がブラジル人弁護士カルロス・アンデラーデ、右側が日本から随行した秘書の武石潜蔵、後列左から一人おいて調査担当の畑中仙次郎、公証翻訳人の杉山英雄、現地理事に迎えられた輪湖俊午郎。(故バストス移民博物館長山中三郎氏所蔵)

 梅谷光貞は1880(明治13)年、兵庫県養父郡畑村に生まれる。1908(明治41)年、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。
 海外移住組合連合会辞任後は昭和7年11月、満州武装移民が問題化したため、陸軍次官永田鉄山の依頼で関東軍特務部移民部長に就任。昭和11年2月退任。同年9月、東京目黒区の自宅で病没。享年65歳。


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