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1 信濃教育会は発足時より「海外発展」の思想とそのとりくみを精力的に推進しつづけてきた。特に一九一六(大五)年の信濃教育会総会で、「五大宣言を決議し、海外発展を根底におき、皇国思想を拠りどころとしてすすめてきたこと。
2 このような立場から一九二二(大一一)年、「信濃海外協会」設立に、信濃教育会が中心的役割を果たし、南米に「アリアンサ」入植の実績を上げた。
しかし、世界恐慌の経済的いきづまりにより、「満蒙」へ政策策転換が強力に推し進められると、いち早く「満州愛国信濃村建設十ケ年計画を策定したのが、「満州国」建国宣言の直後であった。しかも、策定したのは「信濃海外協会」であり、知事を総裁とし、信濃数育会会長が副総裁として実権を握り、幹事には日本力行会会長の永田稠や小学校長がいて活躍した。それらは、南米を中心とする移民政策から満蒙への侵略移民送出となった政策の質的転換だった。信濃教育会が行政と深く結びつき、国策を先取りする形で方策を打ち出し進めたことは注目されなければならない。
3 国策を進めていくうえで障害になるものは徹底的に弾圧し、「皇国民」教育、「五族協和」政策、「満州開拓公社」による「土地先行取得」(買収による略奪)等が連動することによって、教育現場が「義勇軍送出」の最先端として機能したこと。
このようにみてくると「二・四事件」(一九三三年)は、「教育赤化事件」として喧伝され、その名誉挽回のために「義勇軍送出」全国一へと信濃教育会がとりくんだかのような主張があるが、むしろ信濃教育会創立当初から「海外発展」思想に基づき、国策を先取りして積極的に推し進めるうえで、送出に拍車がかかったことが明らかになった。
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