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一九二二(大11)年に、全国で七番目の海外協会として信濃海外協会が設立された。信濃教育会長の佐藤寅太郎が副総裁、幹事には、会の設立に奔走した永田稠(日本力行会長)藤森克(芹田小学校長、植民教育調査委員)斎藤助昇(社会教育課長)がなった。「県民の海外発展に関する諸般の事項を調査研究し、是の発展に資する」ことを目的とした大事業であった。信濃海外協会が発足すると、県内の各郡に支部が結成され、また海外にも支部結成の動きが起こり、満州信濃協会、アメリカのシアトルに瑞穂クラブが結成された。
ここで注目したいのは、幹事として活躍した永田稠の動向である。彼は七年間に及ぶ南北アメリカでの活動をしながら、満州移民への転回を主導していったのである。北海道での農業を体験し、日露戦争にも従軍した彼は、回想記の中で、「満州の天地自然と満州人とが私に言う可からざる環境を与えてくれた」(『国見するもの』)とのべている。
しかし、「満州信濃協会」が設立されたものの、翌(大一二)年の第二回総会では、本間総裁の挨拶で軽く一蹴されてしまったのである。
すなわち、「…支那は行きて、日本人の競争できる土地で無い。支那人の生活程度は、甚だ低く粗衣粗食に甘んじて、労働を惜しまざる国民であるから、彼らの中に立って行くことは不可能である。又西比利亜、満州等は、後彼が如き事情であるから、是又安全に移り住むことはできない。北米合衆国に於いては、在留の我邦人に対して迫害を加え、リンチと同様なる取り扱いもし兼ねまじき状勢である。斯くして今や邦人の行き得るは、南米の一つあるのみとなった。」(『海の外』第一号)
従って、「海外協力会中央会」の結成を主導した信濃海外協力会は、月刊誌『海の外』を発刊したり、その運営面においても、全国的な体制となって結実したが、「満州」方面への国策化には、「昭和」期になって、拓務省がもうけられてからである。
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