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ユバ協同農場の紹介

(NPO現代座レポート・2002年12月20日発行号)

日本文化を残す移住地

 アリアンサ移住地は大正十三年に信濃海外協会によって開設された移住地である。信濃(長野県)を名乗っているが、実際はキリスト教系のボランティア団体日本力行会が建設した移住地である。キリスト教徒が中心になって開設したこともあって、一般の日本人移住地とはちょっと変わった雰囲気を持っている。昭和8年の入植者名簿をみると、入植者の出身県は全国32府県に及んでいる。これは同県人で集まって集団を形成するのが普通だった日本人移住地としては大変珍しいケースである。この移住地建設が成功したことで、周辺に鳥取海外協会、富山移植民協会、熊本海外協会の移住地が生まれ、最盛期は2,000世帯10,000人が住んでいたと言われる。2000年に行われた日系人調査によると、現在では日系人は185世帯644人となっている。(サンパウロ人文科学研究所「日系社会実態調査報告書」)

 大正期のブラジル移住は出稼ぎが中心だったが、アリアンサには永住を目的とした中産階級知識層の移住者が多く、当初から俳句や短歌など短詩文学の活動が盛んで、短歌ではアララギ派門下の岩波菊治、俳句ではホトトギス派の木村圭石、同じくホトトギス派で高浜虚子の愛弟子だった佐藤念腹らが移住している。ブラジル日系社会で最初の短歌俳句雑誌「おかぼ」が創刊されたのは1930年代初頭のアリアンサにおいてであった。ブラジルの日系文化を考えるとき、アリアンサは無視できない移住地である。

若き日の弓場勇  スポーツの面では野球が盛んで、サンパウロの野球大会ではアリアンサ・チームが都会の強豪チームを押さえ、1927(昭和2)年から三年連続で優勝している。この強豪チームを創り上げたのが後のユバ農場リーダーである弓場勇であった。弓場勇は野球の神様と呼ばれ、ブラジル野球界の伝説的存在として語り継がれている。1928年のアリアンサ・チームでは新宿中村屋の四男相馬文雄がライトを守っている。新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻もまたクリスチャンであり、大正期の無名芸術家を支援するパトロンとしても知られているが、アリアンサを建設した日本力行会の熱心な支援者でもあった。

ブラジルの「新しき村」

 ユバ農場はアリアンサ野球チームの合宿から誕生した。リーダーの弓場勇は1926(大正15)年、十九才の時に日本力行会員としてアリアンサへ移住している。弓場は兵庫県の三田中学時代から、関西球界では剛速球投手として知られた逸材であった。アリアンサに入植すると早速青年を集めて野球チームを結成している。
 協同農場の取り組みは1933(昭和八)年頃からはじまるが、1934(昭和九)年に100ヘクタールの土地を共同購入し、本格的な農場を開設する。アリアンサ移住地の設計者であった輪湖俊午郎や、アメリカから再移住した長老格の瀬下登も熱心に支援している。

 農場は「祈ること、耕すこと、芸術すること」を理念とし、農場員を拘束する規約はいっさい作らなかった。入りたい者は誰でも入れたし、出て行きたい者を止めることもしなかった。いかなる理由からであれ、働かないことを咎められることもなかった。現代日本の価値観からするときわめて非現実的な集団と思われるだろうが、この農場が激動期のブラジルで六十七年間を生き抜き、すでに三世の時代に移りながらもユバ・バレエが多くのブラジル人に愛されていることは否定しようのない事実である。芸術による人格の解放が農を支えているのである。

 ユバ農場は創設当初から日本における武者小路実篤の提唱した「新しき村」と比較され、多くの人々の注目を集めてきた。創設者たちは形で比較されることを嫌ったが、「祈り、耕し、芸術する」がトルストイの農民主義への共感からであったことは事実で、その点では武者小路実篤とも共通する大正期の社会主義的・人道主義的思想が土台になっている。

 農場創設者の一人に青森県出身の太田秀俊がいる。現在の五千円札の肖像に使われている新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の甥である。新渡戸稲造は日本力行会の顧問であったから、その縁でアリアンサへ入植したものと思われる。太田は農場開設の一年後、黄熱病で夭折している。

村づくりの中核として

 やがてこの農場は村づくりの中核になって行く。ユバ農場を中心にブラジル最初の産業青年連盟が組織され、無償で移住地道路の造成に取り組み、さらに移住地農業を収奪農業から日本人らしい施肥農業へと転換させるため、ブラジル最大の養鶏場を建設して鶏糞による土壌改良を進める先頭に立った。

 農場に残る写真を見ていると、もう50年も前から子どもたちがピアノのレッスンを受けたり、絵画の指導を受けたりしていることがわかる。芸術活動を特殊なものと考えず、働くことと同様、人間の自然な営みの一部として貫いてきた姿勢がうかがえる。

 ユバ農場は1955年に一度破産している。そのため、同じアリアンサ移住地内の別の場所に移転して農場を再建、現在に至っている。

 クリスマスが来るとユバ農場は移住地全体の劇場となる。この日は、その一年間の農場生活における器楽や合唱、バレエ、絵画などの成果を発表する日でもある。美術家として著名な半田知雄や高岡由也、後に世界的画家として知られた間部マナブらがサンパウロ市から駆けつけて、クリスマスの舞台装置制作に協力している写真もある。戦後はいちはやく映画館並の35ミリ映写機を二台購入、週に一度はサンパウロ市から日本映画のフィルムを借りてきて、村人のためにトラクターで巡回映写をしている。

ユバの芸術活動

昼間は農作業で汗を流す女性たちだが、夜のレッスンでは一変する。  バレエは1961年にユバ農場へ彫刻家小原久雄とともに移住した小原明子の指導で始められた。1965年にユバ農場を訪れたサンパウロ州政府の内務長官が舞台を観て感激、サンパウロ州十都市でのバレエ公演を要請された。これがきっかけで各地へ出かけて公演するようになる。さらに1972年、大統領夫人の招待で首都ブラジリアで公演、全ブラジルに知られるようになった。
 1961年から2000年までの40年間で実に735回の公演を行っている。合唱の公演を含めると800回近くになる。出演依頼が来るとできる限り農場の仕事をやりくりして、舞台器材一式を持って出かける。農場の仕事が待っているからよほどのことがなければホテルにも泊まらず、数百キロの道のりをバスで仮眠しながら日帰りする。
 レッスンはバレエ、器楽演奏、合唱と交互に毎日夕食後に行われる。
 1978年には日本移民70周年の文化使節として訪日、1990年には日本青年団協議会に招かれ、日本各地で公演している。1992年の地球環境サミットにも日本NGOを支援する国際イベントに出演。今や日系ブラジル人のシンボルとなっている。

 ユバ農場は彫刻家小原久雄(1932〜1989)の制作拠点としても知られている。小原は東京都出身、東京芸術大学卒業後、現代芸術協会で活動していたが、1961年、弓場勇の招聘で妻の舞踊家小原明子とともにアリアンサへ移住。ブラジルを代表する彫刻家として活躍した。2001年3月、ブラジル各地から募金が寄せられ、ユバ農場内に小原作品を展示する彫刻展示場が完成した。

 弓場勇の四女弓場勝重(ゆば・かつえ)も絵本作家として知られている。1997年、天皇がブラジルを訪問した際、勝重の「風と少女」を読んでおられた美智子妃は、勝重をブラジリアへ招き、激励されている。

DOTサンパウロ州のアリアンサ移住地


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