HomeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

アリアンサの運命とブラタク

木村 快

入手困難なブラジル移住史文献

 現在、日本には二〇万人以上の日系ブラジル人がやってきて働き、そして生活している。現在の日本の産業は彼らの存在無しには考えられなくなっている。これは考えてみれば大変なことなのだが、残念なことに、現代の日本人はなぜこれだけ多数の日系ブラジル人がいるのかということにほとんど関心を持っていない。だから彼らの母国ブラジルで、百三十万人以上といわれる日系人が、どのように生きているのかについても知らない。かつて多くの日本人が移住者として送り出されたことも記憶の彼方に薄れ去ろうとしている。そうした事実は学校でも教えないから、一九六〇年代以降に育った人はまったくと言っていいほど移住については知らないと言っていい。

 だが、時は二十一世紀を迎え、日本は今、グローバリゼーション(世界化)の荒波に襲われ、異なった文化圏の人々とどうつきあっていくのかを真剣に考えなければならない時代を迎えている。こんなときこそ、早くから海外の異文化圏に移住した人々の体験が貴重な指針となるはずである。ところが今となっては、日本人がブラジル移住について考えることは非常にむつかしくなっている。移住についての文献はほとんどが移住全盛時代に書かれたもので、現代の立場から読み直さなくてはならない問題がたくさんある。できることなら日系人と協力して、二十世紀の移住について振り返ってみる必要があるわけだが、現地側でも移住一世の減少と共に日本語による文献、あるいは日本人の感性でとらえたものはほとんど出版されなくなっている。

ブラタクについて

 日本側からブラジル移住問題を考えようとするとき、いつも頭をなやますのが「ブラタク」についてである。ブラタクは移住史を理解する上で最も重要な組織であるにもかかわらず、これを知る資料はあまりない。日本の読者のために簡単に紹介しておく。
 実は定評のある岩波の歴史小辞典にも載っていないのだが、一九二七(昭和二)年の三月、第五十二帝国議会で「海外移住組合法」という法律が成立している。これは国策によるブラジル移住を決定的にした法律であり、現在二十万人以上の日系ブラジル人が出稼ぎに来るようになった根元を知る上でも重要な法律である。年表に記載がないのは、日本の歴史学者にとって、ブラジル移住は大した意味を持っていなかったのだろう。
 この法律が施行されると即座に各県に海外移住組合なる組織がつくられ、その年八月には海外移住組合連合会が発足し、政府の資金によってブラジルにバストス移住地、チエテ移住地、トレス・バラス移住地といった大規模移住地が建設されることになる。それまでは移民会社扱いの出稼ぎ移住者にしか支給されなかった渡航費も全額支給となり、さらに一人当たり五十円の移住支度金が支給されるようになった。「ブラジル日本移民八十年史」(移民八十年史編纂委員会)によると、戦前移住者は一九〇八年から一九四一年までの三十三年間に179,321人であり、このうち、海外移住組合法が公布された翌年一九二九年以降の移住者は121,151人、わずか十二年間に戦前移住者の七割近くがブラジルへ渡っている。
  この海外移住組合連合会のブラジルに於ける現地組織が「有限責任ブラジル拓殖組合」であり、通称ブラタク(ブラ拓)と呼ばれている。
 明治以降、海外膨張を目指した日本政府は、日清戦争によって朝鮮半島を植民地とすると東洋拓殖会社(通称トータク)を設置し、日露戦争でロシアから中国東北部の支配権を手に入れると南満州鉄道会社(通称マンテツ)と南満州拓殖会社(通称マンタク)を設置している。さらに第一次世界大戦では連合国側に参加し、戦勝国としてドイツからミクロネシア群島の支配権を手にして南洋拓殖会社(通称ナンタク)を置いている。会社という形態をとっているが実質的には政府の植民地支配の機関である。
 ブラタクも当時の日本側からすれば、移住者を送り込むことで資源国ブラジルに日本の経済圏を確立し、綿、工業用ダイアモンド、ハッカなどの戦略物資を調達するねらいがあったはずである。このため、当初は移住者のために発足した組織であるが、やがてその産業部門を日南産業株式会社という新会社に移管し、本格的な産業開発に乗り出す。そして太平洋戦争開戦前の資源確保に大きな役割を果たしている。
 東洋拓殖、南満州拓殖、南洋拓殖などは日本の敗戦によって消滅し、日本人移住者の総引き揚げによって、ある意味では歴史的に清算されたと言えるが、ブラジル拓殖組合の場合は数十万人の日本人移住者がそのまま残ったわけで、ブラジル政府による国家管理の時代はあったものの、一九五一年には日本人側に戻され、関連会社の資産凍結も解除されている。ブラタクの移住地業務は戦後、各移住地の産業組合に事業を継承し、役割を終えるが、関連企業は南米銀行をはじめ日系社会に於ける経済活動の中枢をになってきた。  ブラタクがどのようにして生まれ、どのような仕事をしてきたかを知ることは、日本政府が移住という問題をどう考えてきたかを理解する上で非常に大切なことなのだが、なぜかブラタクが生まれる前後の事情を伝える資料があまりない。このためブラタクについての誤解も生まれている。たとえば、ブラジル日系人の間では一般にアリアンサ移住地がブラタクによって開設された移住地だと誤解されていることもその一つである。

ブラタク四大移住地のなぞ

アリアンサ移住地地図

 たとえば二〇〇〇年一月に発行された「ブラジル日本移民の一九〇〇年代」には「ブラジル拓殖組合創立」の項に、「官主導型の移住地であるバストス、アリアンサの初期移民名簿を見ると‥‥‥」と書かれている。遡って一九七八年に出版された「ブラジル移民七〇周年(サンパウロ新聞・一九七八年刊)」の中の「移民七〇年の中で・海外移住の流れ」と題された移住史にも「政府は昭和二年海外移住組合法を制定して、(中略)いわゆる自営開拓農業移民を渡航させることとなった。かくして、各府県に海外移住組合連合会が設立された。これら一連の施策の現われとして、翌三年(一九二八年)ブラジル現地にバストス、アリアンサ、チエテおよびトレス・バーラスの四移住地が設定され、自営開拓農業移住地のパターンとなった。」と書かれている。
 アリアンサをのぞく三移住地はたしかにブラタクが開設したものだが、アリアンサはブラタク設立以前から存在していた移住地である。「ブラジル日本移民八十年史」では、一九二四年に信濃海外協会が永住を目的としたアリアンサ移住地を開設したことがその後の移住のあり方に大きな影響を及ぼしたことと、その後に移住組合法が施行され、ブラタクによる大規模移住地の建設が始まったと明記されている。それにもかかわらず一般に誤解されたまま通ってきたのは、おおもとのブラタク設立時の事情があいまいにされてきたためだろう。アリアンサのたどった運命は、実はブラタクの発祥と深く関係している。

 ブラタク設立時点でアリアンサと呼ばれた地域は、第一アリアンサ(一九二四年、信濃海外協会開設)、第二アリアンサ(一九二六年、信濃と鳥取海外協会で共同で開設)、第三アリアンサ(一九二七年、信濃と富山海外移植民協会が共同で開設)、ヴィラ・ノーバ(新しい村の意・一九二六年に熊本海外協会が開設)である。いずれも海外移住組合連合会が用地取得に動き出した一九二八年(昭和三)年より古い。しかも官主導によってではなく、民間の団体が民間で資金を集めてつくった移住地である。
 ブラタクが開設した第一号はバストス移住地で、土地購入が一九二八(昭和三年)年六月、第二号のチエテ移住地の土地取得は同年八月である。実際の入植が始まるのはいずれも一九二九(昭和四)年からである。それから後、ブラタクは一九三三年から四年にかけて、アリアンサ隣接地域にノーバ・アリアンサ、フォルモーザ、オリエンテなどの移住地を開設する。面積比率で言うと、第一、第二、第三、熊本が22,508haであるのに対し、後にブラタクが開設した移住地は9,362haである。

アリアンサ(協同)を志向した移住地

永田稠日本力行会長

 実際の動きから見ていくと、アリアンサ移住地の建設プランは海外移住組合法が施行されるより七年前の一九二〇(大正九)年、ブラジル訪問中の日本力行会長永田稠(ながた・しげし)が海外興業株式会社の経営するレジストロ植民地を訪問した際、輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)と北原地価造(きたはら・ちかぞう)に出会ったことから始まったと言われている。
 日本力行会とは一八九七(明治三〇)年にキリスト教の牧師・島貫兵太夫が開設した苦学生支援のボランティア団体で、アメリカ国内に皿洗いや庭掃除といったアルバイトのネットワークをつくり、農村出身の苦学生を積極的にアメリカへ送り込んでいた。しかし、アメリカに於ける日本人移民排斥の機運が激化し、アメリカに代わる青年の働き場所を探す必要があったのである。このため永田は中南米各地を歴訪していた。
 レジストロ植民地は定着移住論者として知られる青柳郁太郎(あおやぎ・いくたろう)が日本の政財界の支援を受け、サンパウロ州政府から無償土地払い下げを受けて開設したもので、医局、精米施設などを備えた本格的な定着移住地であった。永田はこのレジストロに北原を訪ね、そこで偶然輪湖と出会う。
輪湖俊午郎  輪湖はもともとアメリカのユタ州にあったロッキー時報という邦字新聞の記者をしていたが、日本移民排斥の機運が強まるアメリカに嫌気がさし、当時積極的に外国移民の導入をはかっていたブラジルに希望を託してやってきたという経歴を持つ。ブラジルへの再移住のきっかけとなったのは、青柳郁太郎の移住地開設に共感したためだという。しかし、多くの注目を集めたこの移住地も一九二〇年、明治政府によって移住関係企業の一体化が進められ、移民業者が実権を握る国策会社・海外興業に吸収され、経営の実態は当初の理想とはかけ離れたものになりつつあった。輪湖はこの海外興業の機関紙・伯剌西爾(ぶらじる)時報の編集長であったが、経営幹部との意見の違いが大きくなり、永田がレジストロを訪れたときは伯剌西爾時報を辞め、道路造成の監督をやっていたという。
 永田と輪湖はそれまでの移住関係者とは全く別な視点から移住を考えていた。永田も一九一四年までアメリカのカリフォルニア州で邦字紙「農業新報」を発行し、日本人移民の間で産業組合を組織した経験がある。二人はアメリカにおける日本人移民排斥の現実を体験しているだけに、異文化圏への移住のむつかしさを知っていたし、営利業者任せではほんとうの定着移住は不可能だと考える点でも一致していた。輪湖は海外興業の移住地業務を見ていて、日本移民が安心して暮らせるためには、移住地をつくるだけでは駄目で、移住者自身の自治と協同、およびそれを支える思想文化が必要であると考えていた。「自治と協同の文化」を尊重する移住地の建設、アリアンサ(協同を表すポルトガル語)移住地が必要だとする意見はおおいに永田の心を動かした。
北原地価造 輪湖には移住地建設の経験はなかったが、その点では北原地価造は農業技師であり、長野県で農業指導の経験もあった。また、レジストロに入植してからも入植者の相談相手として信頼を集めていた。アリアンサ移住地の名称は後に輪湖が提案して付けられたものだが、基本の理念はレジストロの北原の家で焚き火に当たりながら確認されたものだったという。

信濃海外協会

 一九二〇(大正九)年、輪湖は永田の求めに応じて早速単身帰国し、二十万円あれば理想の移住地がつくれると宣伝し、協力者を求めて歩いた。最初の定住移住地桂植民地やレジストロ植民地を開設した東京シンジケートが資本金百万円で発足したことを考えると、二十万円という金額は市民レベルでも何とかなりそうに思える金額だった。しかし、やはり現実はそう甘くなく、これといった見通しも立たないまま半年が過ぎてしまう。そこへ留守中にブラジルで誕生した長男が死んだという知らせが届き、輪湖はすっかり意気消沈し、ブラジルへ戻ろうと考える。永田としては輪湖をその気にさせた責任があり、せめて運動を継続するための海外協会を発足させ、輪湖へのはなむけにしようと考えた。
 長野県出身である永田は信濃教育会に働きかけ、また、かねがねブラジルでの土地取得に関心を持っていた貴族院議員の今井五介(いまい・ごすけ)を動かして、一九二一(大正十)年十二月、なんとか長野県知事を総裁に据えた形の信濃海外協会を発足させる。そしてその設立事務を輪湖に担当させ、とにかく二十万円で出来る理想の移住地計画書を作成させた。永田は長野県は移住問題では後発県であり、時代の流れから見ても、海外協会は長野県を動かせる組織になるはずだともくろんでいたようだ。輪湖は建設趣意書と計画書を総裁宛に提出し、翌一九二二(大正十一)年三月にブラジルへ戻る。永田は今度は長野県をせっつきながら、信濃海外協会を実体化していく。力行会は明治三十年から若者を海外に送り出していたから、海外移住のノウハウを持っていたし、全国的なネットワーク、さらには北米、中米を含めた海外の人脈と情報を持っていた。長野県という窓口さえ出来れば、力行会自身の能力を遺憾なく発揮し、全国レベルでの運動ができた。こうした事情が、他県の移住運動と違った展開をはかることになったと考えられる。
 この海外協会という組織は後に国策でつくられるようになった海外移住組合とは全く別物で、当時は広島、山口、香川、和歌山、岡山、熊本といった移民を多く送り出している県にしかなく、県出身の海外移住者をバックアップするのが目的であった。移住地建設を目的とした海外協会は信濃がはじめてである。永田は広島、熊本の海外協会設立にもかかわっており、信濃海外協会を発足させるとさっそく先発の海外協会に呼びかけて海外協会中央会なるものを組織し、会長に今井五介を据え、移住運動をリードして行く。

信濃海外協会の実態

 信濃海外協会はなんとか長野県知事を総裁に据える格好は整えたが、当時の県知事は任命制の役人であり、協会発足時の知事岡田忠彦は協会の発足に顔を連ねただけだった。永田は創立総会後の祝宴の費用が払えず、今井五介に払ってもらっている。一九二三(大正十二)年、二代目の本間利雄が移住地建設を宣言することになるが、永田の記述によると彼も当初はあまり乗り気ではなかったらしい。やっと重い腰を上げて移住地建設の号令をかけてはくれたが、資金は自分たちで集めるより外なかった。しかもその数ヶ月後に本間は山梨県知事に転任している。一九二四(大正十三)年五月に永田は移住地選定のためブラジルへ渡るが、船がサンフランシスコに着いたとき本間が転任してしまったことを知りあわてたという。
 資金はなかなか集まらなかった。その上、運の悪いことに一九二二年九月の関東大震災が発生すると、長野県には三五万円の義捐金募集が割り当てられ、どこへ行って訴えても移住地資金どころではなくなってしまった。それでも永田は日本力行会の金で協会を運営しながら、二十万円にはほど遠いが、なんとか七万円の金を集める。七万円の資金があれば、とりあえず年賦で土地を買える。あとは区画された土地を移住者に販売し、資金を回転させて行ける。もちろん、これは順調に行った場合の話である。
 移住地建設を本気でバックアップしたのは三代目の梅谷光貞(うめたに・みつさだ)だった。梅谷は永田がブラジルへ出発した後に赴任してきたわけだが、永田が現地で土地購入する際、不足金二万円を公金を流用して急場を救ってやっている。彼は台湾で植民地行政にかかわった経験を持っており、ある意味では海外発展志向の強い官僚であったから、永田や輪湖の苦境を知ると、むしろ意気に感じたようだ。注意しておきたいのは、この時点でも移住地建設は決して県の仕事ではなく、あくまでも民間の事業であったということである。しかし、梅谷は海外協会とのかかわりから、その後誕生した海外移住組合連合会の初代専務理事に推されることになる。
 四代目の白上祐吉(しらがみ・ゆうきち)が赴任したときは、すでにアリアンサの建設が始まっていた。翌年彼が鳥取県へ転任するころにはアリアンサは予想以上の反応で入植希望者が殺到していたから、早速鳥取海外協会を組織させ、信濃と連携して第二アリアンサの土地を購入させる。さらに翌年富山県に転任するとここでも海外協会を組織させ、富山海外協会は即刻信濃と協同し、第三アリアンサを開設する。
 こうした流れを見ていくと、すでに第一次大戦後の日本には何らかの形で海外膨張の手段を模索する動きが内在しており、永田はそれを移住地建設のきっかけとして取り込むことに成功したとも言える。だが、政財界の動きを利用することは、同時に国策に取り込まれることでもあり、本来の永田・輪湖が志向した移住地理念との矛盾を抱え込むことにもなる。

海外移住組合法の成立

 ブラジル移住を運命づけた海外移住組合法は一九二七(昭和二)年に突然生まれたわけではない。この法律が生まれるきっかけとなったのはアリアンサ移住地における土地の譲渡、産業施設の整備、移住者保護などの必要からだった。こうした問題は一海外協会で解決できる問題ではなく、永田と輪湖はなんとか日本の産業組合法を改正して、販売・購買・信用の外に「移住」を扱えるようにできないかと考えていた。農商務省の小平権一も同意見で、まず信濃海外協会から試験的請願書を提出し、小平が省内で運動したが、反対意見も多く、簡単には行かなかった。そこで「移住組合法」を単行法として制定することを考えた。
 「信濃海外移住史」によれば、永田は一九二三(大正十二)年に移住地建設を決定すると、すぐ小平権一と移住組合法制定建議案を検討している。そして一九二五(大正十四)年、代議士津崎尚武を通して議会に提出し、通過させた。そして翌一九二六(大正十五)年に移住組合法を政友会案として提出したがこのときは審議未了に終わる。翌一九二七(昭和二)年、政界において政友会は憲政会と合流したため、海外移住組合法案はやっと衆議院を通過する。しかし、永田らが準備した「移住組合法案」は、内務省と外務省が準備した政府案の「海外移住組合法案」にすりかえられ、結果としては永田や輪湖が進めようとしたアリアンサ構想をはばむことになる。
 永田が移住組合法の成立に奔走したのは、資金不足によるアリアンサの経営を救済するためであった。資金不足のため、まず年賦で土地を買い、移住地を造成して入植者に売るという自転車操業では、道路の造成、学校や産業施設の設置といったインフラ整備が困難であった。そこで海外移住組合法による公共施設への補助金の交付を期待していた。しかし、いざ法律が出来てみると、法律の適用を受けられるのは法律施行後に設立された移住組合に限られ、アリアンサは適用外ということになってしまった。また、新しく移住組合として認定を受けるには経営資金二〇万円以上という条件があり、アリアンサ各移住地の場合、信濃が最大で一六万円、鳥取、富山、熊本に至っては一〇万円程度の資金しかなく、適用資格も欠いていた。
 現地側の四移住地は経営を統一することによってこの苦境を乗りきろうと合意し、一旦は連合会総会でも承認される。しかし、日本の各県組合本部の間でなかなか意見がまとまらないため、一九三〇年 、アリアンサ理事の輪湖俊午郎が一年間日本へ帰国して合意を取り付けようと奔走することになる。

連合会の政変

 ところが一九三〇年十一月、時の首相浜口雄幸が東京駅頭で右翼テロに倒れるという事態が発生する。外相であった幣原喜重郎が臨時代理首相に就任したことによって、連合会内部で主導権をめぐる対立が激化する。
移住組合連合会二代目専務理事・宮坂国人 一九三一年二月の総会で、田付七太会長・梅谷光貞専務理事が退任し、代わって当時の財界を率いる川崎造船の平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)会長と宮坂国人(みやさか・くにと)専務理事が誕生する。それまで今井五介、梅谷光貞、永田稠といった長野系、つまり片倉製糸系がすすめてきた移住組合連合会に対して、国際市場をにらんだ三菱系が次第に圧力を強めていた時期でもあり、三菱の大番頭といわれた幣原の首相就任によって、三菱系は思いがけない形で連合会の実権を手に入れる。当然、信濃の四移住地統一経営案は一蹴され、輪湖は失意のうちにブラジルへ帰る。
 かくして二代目専務宮坂国人がブラジルへ乗り込んでくることになるが、宮坂としては世界情勢の流れからして、産業資源の確保に向けてアリアンサ全移住地をブラ拓の管理下におく必要を感じていた。宮坂はただちにアリアンサを訪れ、経営のブラ拓移管を提案するが、アリアンサ側は移管するに当たってはあくまで四移住地の統一経営を主張し、難航する。だが、信濃以外の破綻しかかった移住地にとって、ブラタク移管は魅力的だった。結局、熊本は一九二九年、鳥取、富山は一九三四年に相次いで経営権をブラ拓に移管する。

アリアンサの終焉

 結局、信濃系の第一アリアンサだけが独自の道を歩くことになった。永田の書き残したアリアンサ関係の資料の行間からは、産業重視政策を進めようとする宮坂側と、「コーヒーより人をつくれ」をスローガンにしていた永田側とではとうてい一致できるはずはないことが読みとれる。
 しかし、やがて日中戦争が本格化し、ブラジルでは日本人に対する圧力が日増しに強化されてくる。一九三八(昭和十三)年、第一アリアンサは移住者保護などの点から、ついにブラ拓への経営移管を決断する。同時に、「移住者による自治と協同の文化」というアリアンサの夢は、見果てぬ夢となった。
 この時点で、ブラタクは全アリアンサ移住地の経営権を手中にし、直営のバストス、チエテ、アサイの三移住地とともに、後に言われるブラ拓四大移住地を実現したわけである。
 だから年代順に表現すると、

  1. まず一九二四年に信濃海外協会のアリアンサ移住地が生まれる。
  2. 一九二六年に鳥取、熊本が、二七年に富山、の移住地が生まれ、大アリアンサ圏が成立する。
  3. それが引き金となって一九二七年に海外移住組合法が成立し、海外移住組合連合会が生まれる。
  4. 連合会の梅谷光貞専務はただちにブラジルへ渡り、バストス(現バストス市)、チエテ(現ペレイラ・バレット市)に用地を取得する。
  5. 一九二九年に連合会の現地法人としてブラタク(有限責任ブラジル拓殖組合)が設立される。
  6. 一九三一年に連合会総会で田付・梅谷体制から平生・宮坂体制に代わり、新方針が打ち出される。
  7. アリアンサの熊本、鳥取、富山移住地がブラタクに移管される。
  8. ブラタク三つ目の移住地トレス・バーラス(現アサイ市)が開設される。
  9. 一九三八年に第一アリアンサがブラタクに移管され、ブラタク四大移住地と呼ばれるようになる。

移住史の見直しを

 ブラ拓がアリアンサをつくったという誤解の原因は、ブラ拓の土地取得データにもあるようだ。それは一九二八(昭和三)年に、連合会の梅谷光貞専務理事がバストスの用地を取得した際、アリアンサに隣接する小地域三カ所も購入しており、ブラ拓創立期の仕事として、三移住地の購入と並べてアリアンサの土地購入データが併記されていることである。たとえば「ブラジル日本移民八十年史」の九七頁にはブラ拓が購入した土地として次のようなデータが記載されている。

 当時、アリアンサはすでに第一、第二、第三、ビラ・ノーバを合わせると31,864haの大移住地であり、ここに表示されたアリアンサの土地とは、後にオリエンテ移住地として売り出されたものである。後の人々はこのデータを見て、ブラタクが全アリアンサを開設したものと誤解するようになったのではないだろうか。
 やむを得ないことではあるが、宮坂時代に編纂された各移住地史には、ブラタク設立時期の事情がほとんど書かれておらず、したがって、それぞれの移住地がブラタクとどのようなかかわりを持っていたのかについても曖昧である。
 たとえば移住組合連合会が設立された当時の所轄官庁は内務省で、ブラジルに各県独自の村をつくる方針であった。ところが、外務省の出先機関である総領事館はそんな現地の事情を無視した方針に対して反発し、あまり協力的でなかった。現地に乗り込んだ梅谷専務理事は当惑し、アリアンサ理事であった輪湖俊午郎を企画スタッフとして招き、方針を再検討している。その結果、県別主義の入植を断念し、出身県にかかわらず到着順に入植させる大移住地建設に転換している。また、チエテの用地取得については地権問題が複雑にからみ、ブラジル政界人を巻き込んでなんとか買収し、輪湖が主任理事として開発に当たった。しかし、「チエテ十年史」にはその間の事情は全く触れられておらず、初代主任理事輪湖の名前は消されている。

梅谷光貞(手前)と輪湖俊午郎チエテ主任理事 ←チエテ移住地建設当時、梅谷光貞専務理事(手前)と輪湖俊午郎チエテ主任理事。1929(昭和4)年5月16日、前地主ジョーナス氏宅にて、弓場勇撮影。バストス移民博物館所蔵写真より。

 一九四〇(昭和一五)年、輪湖俊午郎は日本の紀元二六〇〇年祭にブラジル日系社会の代表として招かれる。このとき青柳郁太郎を代表委員とする「ブラジルにおける日本人発展史」の編纂が企てられ、輪湖は移住地関係の記述を担当している。だが、立場上あまりつっこんだ記述はしていない。その代わり日本滞在の間に、「流転の跡」と題する自伝を自費で出版し、その付録に梅谷光貞を追悼するという名目で移住組合の内情と問題点を詳しく書き残している。この「流転の跡」は自伝としてはきわめて不完全なもので、どうも本心はブラタク設立前後の事情を書き残しておきたかったため、このような形にしたのではないかと思われる。輪湖は昭和九年、アリアンサの理事を辞し、かつて梅谷光貞とともに苦労して購入したチエテ移住地へ移り、終生そこで過ごした。
 ブラタクが邦人社会の発展に大きく寄与したことは間違いないが、それだけに世界的な共生 が求められる二十一世紀の視点で、今一度、日本人移住史を見直す時期に来ているのではないだろうか。

(二〇〇〇年八月十一日・ユバ農場にて)

Back home