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アリアンサ移住地は一九二四年(大正一三年)十一月二十日、信濃海外協会主任理事の北原地価造夫妻、座光寺与一(大工)夫妻、日本力行会青年四人で開発を始めた。大原始林の中ノロエステ線ルッサンヴィラ駅から三十七キロ地点を開発開始点と定め、最初の一夜を露営。資材の確保もままならず、開発者達は壁のないトタン屋根の下で暮らしたという。井戸を掘っても思うように水は出ず、開発は困難をきわめた。そして日本から第一次移民四家族を迎えたのは翌一九二五年(大正一四年)の八月である。
四年後にブラジル拓殖組合(日本の国策会社)が開発を始めたバストス移住地やチエテ移住地(現ペレイラ・バレット市)では、このアリアンサ開拓の経験を土台にして大規模、かつ組織的に展開された。
もともと地名などなく、信濃海外協会は「共同・共生」を意味するブラジル語のアリアンサを移住地名とした。戦前は「ありあんさ」と表記されていた。またそれまで使われていた「植民地」という呼び方に代えて「移住地」としたのもアリアンサ移住地が始めてである。
この木製の記念碑は一九三九年に建てられたが、痛みが激しくなったため、現在はサンパウロ市のブラジル日本移民史料館に保管展示されている。
上の写真は一九五六年まで弓場農場に在籍していた清水一郎氏の写真資料の中にあった。撮影は一九五一年頃のものと思われる。