HomeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料
小野りう

アリアンサの証言 2

入植当時の思い出

小野りう

 これは一九九九年に発行された「アリアンサの声・第四号」(第一アリアンサ文化体育協会発行)に掲載された小野りうさんの文章を転載させていただいたものです。小野りうさんは今年九十才になられますが、この文章は昨年(一九九九年四月)に書かれたものです。

 小野りうさんは堀了さん一家として瀬下さん、岩波さん、戸叶さんと一緒に入植されたとありますから、当時の移住者名簿からすると、一九二五年七月にマニラ丸で渡伯されたもの思われます。アリアンサ開設直後で、第一陣三家族が六月に入植したばかりです。アリアンサはまだほとんどが原始林で、堀さん一家をふくめてまだ十家族に満たない時期です。

 文中で使われている「収容所」とは移住者が自宅を建てるまでの間滞在する共同宿舎のことで、昭和二十五年頃までは日本でも普通に使われていた用語です。当時使われていた用語なので、文献上では現在でも「サンパウロ移民収容所」、「神戸移民収容所」などと表記しています。

 文中の輪湖さんとは移住地主任理事の輪湖俊午郎氏、北原さんとは移住地責任者北原地価造氏のことです。


アリアンサへ入植したいきさつ

 この度文化部の方が私に何か書いてくれといわれましたが、何も知らない無学な者で書くことが苦手で本当に恥ずかしいのですが、恥をしのんで少しばかり書いてみようと思い筆をとりました。伊藤忠雄さんや中原祝さんがお書きになったと同じようなことですが、昔の思い出話をします。

 私も大正十四年(一九二五)にアリアンサに入植しました。本当は私達はモジアナ線のファゼンダ(農場)に行くことになっていたのですが、ちょうどそのとき、輪湖俊午郎さんがアリアンサに入植される方を迎えにサンパウロ収容所へ来られており、アリアンサにもう一家族ほしいということで探していたところに、私の叔父が岩波さんや戸叶さんを日本の力行会に一緒にいて知っていたものですから、
 「堀くんアリアンサに行こう、行こう」といって下さったので、アリアンサに来ることになりました。
 私の叔父の名前は堀了というのです。瀬下さん、岩波さん、戸叶さん、堀了がアリアンサに一緒に入植しました。サンパウロの収容所で、輪湖さんが、私の隣のカーマ(寝台)に休みました。そのとき輪湖さんは靴を履いたまま休みましたので、ブラジルという所は靴を履いたまま寝るところかとおどろいてしまいました。
 翌日汽車に乗り、アラサツーバで一泊してまた薪をたいて走る汽車に乗り、火の粉がとんできて服が焼け、穴があきびっくりしました。
 そのうちルッサンヴィーラという駅に着き、迎えに来ていたカミオン(貨物自動車)に乗りかえて、雨のしとしと降る原始林の中の道を傘をさしながら行き、少し開けたところに止まり、十三キロとかで、林田さんという方の所でご飯をごちそうになりました。また自動車で昼も薄暗い原始林の一本道を何時間もかかってやっとアリアンサに着きました。
 そこは収容所でした。夕飯は北原さんの所でごちそうをしてくれることになりましたが、私と伯母(といっても十八才で若いのですが)と二人は何もほしくないので行きませんでした。その時、私達より一ヶ月早く日本から来ていた小川さんの奥さんが、二人にカタクリなどを作って食べさせて下さったのです。本当にうれしゅうございました。やさしい方で、モンペの作り方など教えていただきました。今でもなつかしく思い出します。

入植当初の苦労

 荷物が来るまでは、一緒に来た方達と共同生活をしばらくしました。毎日フェイジョン(豆)に砂糖と塩を入れて煮てご飯のおかずにして食べました。
 井戸は掘ってありましたが水はなく、石油缶に柄をつけて、天秤棒を作ってかついで運びました。二百メートルぐらいの所でなかなか大変でした。
 私達も(信濃海外)協会のコーヒーの四年契約をすることになり、毎日のこぎり、マッシャード(斧)で大きな木の枝うちで切り落としたのを集めて火をつけて焼くのです。真っ黒な木を持って運ぶので、服から顔から真っ黒になり、まるでお化けのようにして働きました。
 収容所には次から次と日本から来る人でいっぱいになり、私達はコロノ(契約労働者)の家が出来るまで青年ホームの片方があいているので、そこにムダンサ(引っ越し)しました。宮村さんという方と一緒で、そこは日中になると瓦が見えなくなるほどコオロギがいっぱい出てきて糞をバラバラと落とすのでびっくりしました。
 あるとき青年の芦部安夫さんという方で、青年のご飯たきとアルマゼンで(売店)で働いている方が、「今日はコオロギ退治をやりましょう」というので、長い棒の先にボロギレをまき、石油をかけて火をつけて、号令をかけて一同コオロギを焼くのでバラバラと落ちて死にました。コオロギは夜になると出てきて、手や足の爪をかじるので血が出ることもありました。日本から持ってきた本などみなかじって穴だらけにしてしまいました。何回もそうやって退治しました。
 また、ねずみ退治もしました。ねずみも青年達のボロシャツやボロカルサや靴などかじりました。木の箱に巣を作ったのを見つけてその箱を引っぱり出し、四、五人で周りをかこんでほうきや棒などを持って、一人がボロきれなどを放り出すとねずみが飛び出すのをわいわい騒ぎながらたたいて殺すのです。
 それと、襲撃蟻にも困りました。夜、家の中、壁、天井まで隙間なく真っ黒になって襲撃してくるので寝るところがない。少しのところにサッコ(麻袋)など敷いて、周りに石油をふりまいて座って、蟻が出ていくのを待つしかなかったのです。蟻はコオロギやバラッタをエンヤッとかついでシャッと音を立てて、いきおいよく行くのです。コオロギも日本のようなきれいな声で鳴くコオロギとちがって、黒くて二、三センチぐらいなのです。今では笑い話になりますが日本から来たばかりで本当に驚きました。

北原さんのお宅で

 また、ある時北原さんの奥さんが病気になり、私に手伝いに来てくれとのことで行きました。奥さんの病気はマレイタ(マラリヤ)で、一日に一回寒気が来てガタガタ震えるのです。ありたけの布団をかけてあげると、こんどは暑くなり、熱が四二度ぐらいに上がるのです。氷もなく、井戸からくんだ冷たい水の水まくらで冷やすのですが、すぐお湯みたいになってしまうので何回も何回も取り替えてやりました。
 本当に苦しい病気です。北原さんはお仕事でいつも留守で、一人ハラハラしながら心細い思いをして、早くよくなるようにお祈りしておりました。北原さんはお忙しい方ですが、心配して奥さんをアラサツーバの病院に入院させることになりました。私は日本から来たばかりでブラジル語がわからないので、北山さんのおばさんにかわってもらいました。そのうち病気もよくなり、帰ってこられたのでホッと安心しました。

カスカベール

 私が北原さん宅にいた時、北原さんがどなたかからカスカベール(毒蛇だが、食用になる。動くとジャラジャラ音がするので鈴蛇とも言う)をもらって来て、皮をむくのをアジューダ(手伝い)してくれと言われ、こわごわ手伝って皮をむき、今度は料理もしてくれというので奥さんに聞いて、二センチぐらいに切り、フライパンに油を入れて、塩、胡椒で味を付けて煮て北原さんに食べさせました。
 「これはおいしい、ほおかぶりをしないとほっぺたがおちるよ」と言って喜んで食べてくれました。まだまだ面白いこと、悲しいことも書ききれないほどありました。

水の苦労

 そのうち私も結婚しました。主人の親代わりに北原さんご夫妻がなって下さり、いろいろお世話になり、住む家は北原さんの家から十五メートルぐらいの所にミーリョ(とうもろこし)など入れてあった家を片づけて、窓など作って住むことになり、私もまだ十八才で何も知らないものですから、何から何まで教えていただきました。どうやらつつがなく暮らせたのも、北原さんご夫妻のおかげとご厚情、ありがたく感謝の気持ちは忘れることができません。
 長女が半年ぐらいの時に、七区に土地を求めムダンサ(引っ越し)しましたが、井戸は掘っても岩盤で硬くて水は出ず、日本で井戸堀りをしたという人などにたのんだり、ブラジル人なども何人か来たが皆硬くて掘れず、逃げていきました。雨期になって雨が降ると出るのですが、セッカ期(乾期)になるとなくなるので、本当に水には苦労しました。子供八人のオムツはみな川で洗いました。

オンサ

 中央区からムダンサする時、三十羽ほど鶏を持っていったのですが、夜になるとオンサ(ブラジル豹)のようなブチのある獣が出てきて、金網で囲って入れないようにしましたが、つぎめの片方が下がるとすき間ができるのでそこから入るのです。夜寝ていると、金網の上を歩く音がカシャカシャとするのでいつも鉄砲を枕元において寝ているので、すぐに窓から一発撃つと、獣もおどろいて中で狂い回っているのです。私がランプ持ちをしているのですが、牙をむいて向かってくるのです。それになかなか撃てないのです。そんなことをして二頭とりました。まだまだ来ましたがみんな逃げられ、そして鶏は全部とられてしまいました。
 主人も大工でしたから、アリアンサの学校、精米所、製材所、カフェーマキナ(コーヒー精選所)、病院、ホテルなどを中沢武さん、ペドロらと三人でみんな建てました。毎日弁当持参でなかなか大変でした。
 私も今年で入植七四年になります。お世話になった人も皆なくなり、昔からの人は私一人になりました。今は亡くなられた方の冥福を祈りながら過ごすこの頃です。一緒に来た叔父夫婦は十二年間アリアンサにいましたが、日本からどうしても帰って来るようにと言ってきたので帰りました。今では二人とも亡くなりました。
 あまり長くなるので、このへんでかんべんして下さい。つたないぶんで恥ずかしい次第です。


Back home