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アリアンサ移住地とパルマ農場

木村 快

 これはバストス市在住の阿部五郎さんの調べられたものを基軸に、トゥッパン市在住でパルマ出身の歴史教師ミリア・トゥペス夫人からの取材、バストス移住地建設にかかわった山中三郎さんの話、パルマ農場で働いた経験を持つ第三アリアンサ在住の阿部敬吉さんの話を総合し、さらに文献などでレトニア(ラトビア)人の歴史事情を補足したものである。

パルマ農場を訪ねて

1931年、パルマ農場落成。当時パルマ農場で働いていた弓場ひろむが兄の弓場勇に送った写真。  アリアンサのことを調べているうちに、たびたび不思議なひびきを持つ地名を耳にしていた。「バルパ」と「パルマ」である。ヨーロッパ系外国人の農場らしいということはわかったが、バルパとパルマというまぎらわしいひびきが妙に印象に残っていた。サンパウロでいろいろ古い人にたずねてみたが、人によってはソビエト革命を逃れてきたロシア人亡命者の農場だと言い、あるいは東ヨーロッパの小さな国からの移住者がつくった共産主義者の農場らしいという人もいて、どのような農場なのかよくわからない。たまたまバストス出身の日伯毎日新聞記者佐藤猛さんから、バルパというのはバストス市の近くにあるレトニア人植民地だということを教えてもらった。

 サンパウロ人文科学研究所で日本人移住地の記録を調べているとき、水野昌之著「バストス二十五年史」(昭和30年)の中に、移住地における建設資材の調達について次のような記述があった。「移住者の住宅は、(昭和4年)七、八月頃から続々上棟、一部分はすでに完成して移転したものもあったが、製材所、煉瓦工場等の建設が遅れたため、肝心の板および煉瓦、その他の材料を入手することができず、遠くバルパ及びレトニア植民地方面から取り寄せるなどしたが、もとより不足勝ちで‥‥‥」。バルパのことは判ったが、パルマについてはよくわからない。

 1996年6月、ポンペイヤの西村農学校を訪問した帰り、バストス市に立ち寄り、宇佐見旅館の主人にバルパ、パルマのことを聞いてみた。宇佐見さんは「バルパのことなら阿部さんが「ふるさと通信」という日本語のミニコミ紙に連載しているからと、すぐ電話で阿部五郎さんを呼んでくれた。阿部五郎さんは地元の日本語ミニコミ誌「ふるさと通信」を発行しながら、日系人のためのFM日本語放送をやっておられる。

 阿部さんは1936年、小学校四年生のときパルマ農場へ見学にいったことがあるという。当時バストス移住地には十二、三の居住区があったが、それぞれの区に小学校があり、子どもたちの課外授業といえばパルマ農場の見学くらいしかなかった。しかし、住民の中には、あそこは共産村だから、あんなとこに見学に行くなんてとんでもないという人もいたという。パルマ農場がキリスト教の信仰にもとずいた共産共有の農場であったことは事実だが、当時は世界的にナショナリズムの勃興した時代だったこともあり、共産主義イデオロギーに対する警戒からそうした誤解が広がったものらしい。しかし、今ではバストスも日本人移住地の面影はなく、日系人でもパルマのことを知る人はもうあまりいないという。

 阿部さんがあらためてパルマ農場に関心を持つようになったのは、何年か前、少年時代が懐かしくなって、あのパルマはどうなったろうかと気になって調べはじめたことからだった。トゥッパン市にパルマ生まれのミリア・トゥペスという女性の歴史教師がいることを知り、会いに行った。トゥペスさんは多くのブラジル人にレトニア人移住者の歴史を知ってもらおうと、「レトニア人移住者の歴史」という小冊子を出版していた。阿部さんはこの本を通してレトニア人の移住史に感銘を受け、自ら翻訳してその骨子を日本語ミニコミ誌に連載していた。
 翌朝、宇佐見さんの好意で車を出してもらい、宇佐見さん、阿部さんとともにバルパ地区とその奥にあるパルマ農場を訪問することができた。

バルパとバストスの関係

 まず、バルパとパルマの関係だが、バルパとは1922年に2000人のレトニア人が拓いた移住地で、パルマとはそのうちの400名ばかりが独自に建設した集団農場の名前である。正確には「バルパ植民地」と「パルマ農場」だが、一般には「バルパ」「パルマ」で通っていたらしい。

 バルパに入植したレトニア人たちは、最初、家族持ちに土地を5アルケールずつ分配したが、独身者、未亡人、孤児など、単身では開拓できない者が430人ばかり残った。そこで最初は50人を1単位として配分しようとしたが、最終的には400人全部を一単位とした方がいいということになり、200アルケールの共同農場をつくることになったという。こうした事情からパルマ農場は共産共有のシステムでスタートする以外になかったのである。パルマ農場は最盛期には800人の農場員がいたというから、かなり大規模なものになり、本家のバルパに匹敵する規模の町ができていたようだ。ブラジル地図には今でもバルパの隣にパルマの地名が記載されている。

 1927年(昭和2年)の八月に帝国議会で海外移住組合法が成立すると、海外移住組合中央会はブラジルに現地法人ブラジル拓殖組合(略称・ブラ拓)を設立し、日本人移住地の建設に乗り出す。用地取得のために梅谷専務がブラジルに着いたのがその年の十二月である。そして翌1928年の六月にはバストス移住地の用地を取得している。こうした短期間の調査で大規模移住地の取得を決断しえたのは、なんといってもパウリスタ鉄道クアタ駅から建設予定地まで、すでにバルパ街道が存在しており、大量の建設資材を運び込むことが可能だったからだろう。

 水野昌之著「バストス二十五年史」によると、「クワタ駅よりノロエステ線に通ずる36キロの地点より分かれる四キロ余の既成道路を延長し、移住地入口まで約六キロ八〇〇メートルの新道を開さくし」とある。つまり、ブラ拓が開削した道路は10キロ少々で済んだわけである。このバルパ街道こそ先住移民のレトニア人たちが老人、女性、子供まで動員して原始林を伐り開き、造成した道路だったのである。バストス移住地建設に当たっては建設従事者の食料、事務所や移住者の住宅建設に必要な材木なども、ほとんどパルパおよびパルマ農場から購入していたという。

 また、初期のバストス入植者たちはみんなコーヒーをやるつもりだったが、コーヒー価格が暴落したためコーヒーの植え付け制限令が出され、コーヒーを植えることができなくなった。そこでバストスでは綿を植えることになったのだが、日本人は綿の栽培経験がなかったので、パルマに行って教わったという話である。

 バルパ植民地が建設されるまでは、この地域はただの原始林に過ぎなかった。バルパ植民地が誕生することによって、この一帯の行政がはじまったのである。だからバストス移住者の出生登記や地権の登記など、さまざまな行政上の手続きはバルパに行かなければならなかった。また、日本人初期入植者は病院もなかったし、家を建てるにも材木がなかったから、ずいぶんバルパの世話になっている。墓も初期にはバルパの墓地に葬った。のちにバルパやバストスから最も近い場所にパウリスタ延長鉄道が敷設され、トゥッパン駅が誕生したため、行政関係の役所はトゥッパンに移された。その後、バルパはトゥッパン郡となり、バストスは市街が拡大し、独立した郡になった。

 1997年に再度パルマ農場を訪ねた際、バストス建設に従事した山中三郎さんがまだお元気と聞き、ポンペイヤ西村農学校の西村俊治氏の紹介でお訪ねした。パルマについては次のような話をうががった。

山中三郎さんの話

 わたしは19歳の時、カフェランジャで畑中さん(ブラ拓理事)からバストスに新しい植民地ができるから来ないかと言われ、バストスに移った。わたしはすぐブラ拓のカミヨン(トラック)の運転手として働いた。当時は一トン半しか積めない小さなフォードだが、材木を運ぶために毎日5メートル幅の泥んこ道をバルパやパルマまで通ったものだ。バストスからバルパまでは36キロくらいの道のりだ。
 バルパにも製材所はあったが、パルマ(農場)の方が組織的で大規模だった。製材部の主任は奥さんの兄弟が樺太にいたということから、親しくなった。パルマに材木がないときは、バルパのドイツ系の製材屋から買った。

 コンクリート用のバラスもバルパへ取りに行った。
昭和4年の5月ころ、バルパの採石場で一週間合宿したことがある。その頃は日本から単身の青年がかなり来ていて、広島出身の八谷(やたがい)という27才の青年がわたしの助手をしていた。日曜の朝、ピストルの手入れをしていた男が誤ってピストルの引き金を引き、隣で新聞を読んでいた八谷の腹部を貫通させてしまった。ブラジルではピストルが簡単に手に入るので、日本から来た若者はピストルを買って山の中で試射するのを楽しみにしていたのだ。

 支配人の畑中さんとわたしはすぐバルパに飛んだ。バルパには軍医上がりの医者がいたのですぐ診察してもらったが、第一次大戦に参加した経験を持つ医者は、「これは膀胱を貫通している。自分の経験ではまず助からない」と言った。サンパウロまで連れていくことは時間的にも無理があり、また官憲にもとがめられる危険があった。八谷はうわごとばかり言って三日目に死んだ。

 バストスの病院は昭和4年の5、6月から建設がはじまっていたが、本格的に開業するまでには2年ばかりかかったから、それまでは日本人移住者はバルパの病院にかからなければならなかった。トゥッパンに病院ができるのはそのずっと後のことだ。

 昭和5年頃からはパルマの材木は農場から直接川を流して、それがリオ・デ・ペイシェ河に出ると、バルパ街道で拾い上げ、カミヨンでバストスまで運んだ。リオ・デ・ペイシェ河はさらにバストスから九キロのところまで流れているが、道路がないため利用されなかった。

レトニア人の祖国

 バストスで話を聞いた時点でもレトニアとはどこにある国なのかよくわからなかった。阿部さんがバルト三国の一つだというので、言葉のひびきからリトアニアのことではないかと思った。ところが、バルパの町にある小さな資料館を見学したとき、1929年にマルド・アンデルセンという女性の外科医が入植し、12ベッドを備えたバルパの病院が建設されたことが判る。そこにマルド・アンデルセン医師の医大卒業証書が展示されてあって、大学名に該当する部分にリガと読める文字がある。リガならラトビアの首都である。

 ユバ農場の図書館にあった平凡社大百科事典で調べると、ラトビア人の項目に「レット人とも言う」とあった。つまりレトニアとはレットネアであり、レット語、レット人という意味だったのである。日本人にはラトビアという言い方の方が無理がないが、本稿ではあえて日系人の表現にならってレトニアと呼ぶことにする。

 レトニア人は13世紀初頭からドイツ人の帯剣騎士団に支配されていた。帯剣騎士団とは十字軍の遠征以来、東方のキリスト教地域を防衛するため、ローマ教皇が認可した武装集団である。つまりこの地域は国としての組織を持たない、レット人の居住する地域といったていどのものだったらしい。

 その後、この地域はポーランドに併合されたり、スウェーデンの支配下になったり、ロシアの支配下になったり、周辺強国の争いの中で翻弄されてきた地域である。第一次世界大戦中はドイツに占領され、ドイツ敗北後の1918年にロシア領から離脱して、はじめて自分たちの国ラトビア共和国を成立させる。

 だが、成立したばかりのソ連政府はそれを認めず、そこへまたドイツが介入し、一方ではドイツやロシアからの分離を狙うイギリスとフランスの独立支援で内乱となる。英仏に支援されたラトビア政府軍は1920年1月にやっとリガを奪回する。英仏連合軍の前にソ連政府はすべての権利を放棄したが、国内の政治状況としてはやはりソビエト派の台頭がいちじるしかった。その結果、宗教に対する風当たりはきびしさを増し、キリスト教信者の国外脱出がはじまる。

 その後、1940年にレトニアはふたたびソ連の構成国に編入される。そして第二次大戦の開戦と同時にまたもやドイツに占領され、ソ連の反撃によってふたたびソ連領に戻る。こうしてラトビアは13世紀以来、たえず大国の領土争いの渦中におかれ、その都度戦火にふみにじられるという悲劇の道をたどっている。

 1989年、ソビエト政権崩壊のあと、エストニア、レトニア(ラトビア)、リトアニアのバルト三国はようやく独立国家としての道を歩み始めるが、ソ連時代に定住したロシア人を多く抱えており、民族的安定にはまだまだ多くの困難が予想される。

レトニア人のブラジル入植

 バルパのレトニア人がブラジルに渡ってくるのは1922年の11月である。周辺大国の力関係で運命が左右される小国にあっては、将来への展望もきわめてきびしく、あわせて第一次大戦後の民族移動の波の中で、ラトビアのバチスタ(バプテスト派)信者たちは安住の地を求めて世界中へ散っていく。そのなかの一団2000人がブラジルへやってきたわけである。このときの写真が山中三郎氏らの収集した資料写真としてバストス移民博物館に展示されている。

 バチスタとはバプテスト教会(再洗礼派)をブラジル語で発音したもので、宗教改革に伴い、十六世紀末にイギリスで生まれたキリスト新教の教派である。百科事典から要約すると、この派の特色は聖書至上主義、良心の自由を基礎とし、幼児洗礼を否定し、自覚的信仰により、全身を沈めるバプティスマ(浸礼)を行うとある。また、制度的には霊的民主主義を唱え、平信徒の重視、各個教会の独立、教権主義への反対、政教分離をたてまえとする。こうした革新的な教義を掲げるバプティスト派は、大国に支配され続けたバルト地方の住民の間に広く受け入れられたようだ。

 ブラジルへ渡ったレトニア人たちは、当初、ドイツ人が開拓した気候的にも涼しいサンタ・カタリーナ州周辺への移住を考えていたが、サンタ・カタリーナには2000人も受け入れられるような土地はもうなかった。そこでやむなく、開発が進みつつあったサンパウロ州の奥地に土地を買い、現在のバルパへやってくることになる。

困難をきわめた移住地への旅

 その一団には家族持ちだけでなく、戦争未亡人や戦争孤児が大勢いた。日本やドイツ、イタリアなどの国策移民とちがって、彼らを迎える準備はいっさいなく、土地の選定すらブラジルに上陸してから自分たちで判断しなければならなかった。彼らは全く未知の国で、自力で開拓地を目指さなければならなかった。ただ、この移住者たちがバチスタ派の信者であったため、リオ・デ・ジャネイロ市のバチスタ教会が支援に当たったようである。

 この教会にアンデレ・クラビンというロシア騎兵隊出身のレトニア人牧師がいた。彼が通訳をかねてレトニア人入植者をサンパウロ奥地まで引率して行くことになる。クラビンはその後、未亡人や孤児のための集団農場、パルマ農場を建設するリーダーとなる。

 現在ではサンパウロからバストス市やバルパへ行くにはパウリスタ延長鉄道があり、サンパウロと直結した幹線道路がある。しかし、当時はずっと南のソロカバナ線しかなかった。それも予定地よりずっと手前のサペザールまでしか開通していない。彼らはサペザールで下車して一晩野営をし、そこから原始林を分け入って、30キロ離れた入植地へ向かわなければならなかった。途中にリオ・デ・ペイシェという河がある。この河は後にパルマからバストスへの建設資材を搬送するための重要な運河の役割を果たすのだが、疲弊した老人や女子供を交えた集団にとっては恐ろしい河であった。ロープをたよりに老人も女も子供も深い河を渡ったという。

バルパ植民地とパルマ農場

 レトニア人たちが購入した土地は2098.72アルケールとある。メートル法に換算するとざっと5200ヘクタールである。これは地権問題などもあり、一時は動揺した時期もあったが、大統領に直訴し、無事地権が認められる。それから分譲がはじまるが、それまでは全体が共同生活を送った。資金については、富める者も貧しき者も有るだけの資金を拠出し、分配は一家族5アルケールずつ平等に行われた。

 このうち200アルケールを独身者、戦争孤児など400人に分与し、共同で開墾することになり、パルマ農場と名付けた。当初は50アルケールずつ、4グループに分けて開拓を始めたが、1グループに統合したほうがよいということになり、さらに550アルケールを追加、計750アルケールの大共同農場となる。

 農場の運営は400人の構成員から132人の代表が選出され、合議で運営されたようだ。しかし、農場のすすめ方についてはやはりいろいろ意見の対立があったようで、発足早々、有力な牧師の一派が脱退してサンパウロへ出ていったという記述もある。

パルマ農場総支配人アンデレ・クラビン。1952年、弓場勇が訪問した際の撮影。

 入植時に案内人をつとめたアンデレ・クラビン牧師がどのような経過でパルマの支配人になったのかはよくわからないが、クラビンがパルマを優れた集団農場に仕上げたことは間違いない。ポンペイア在住の西村俊治さん(西村農学校創設者)によると、「戦前も戦後も、あの近辺の日本人移住者は畜産やブラジル特有の農作物栽培についてずいぶんパルマから教えてもらったものです。支配人のアンデレ・クラビンという人は人格者で、なかなか魅力的な人でしたよ。日本人移住者の間でもアンデレさんと呼ばれて親しまれていました」と言う。

 「来るものは拒まず、去るものは追わず、客人には出来る限りのもてなしを」というのがクラビンのモットーであり、昼食時になると、どんな人にも「どうぞ一緒にご飯を食べて下さい」と食事を振る舞ったという。また、絵画で飾られた大きな食堂はオーケストラやコーラスの練習所でもあった。

 1929年にレトニアの首都リガ市から先述のマルド・アンデルセン医師が入植し、バルパ植民地に12ベッドの病院が建てられた。この病院は人種の差別なく誰でも利用できたので、プレジデンテプルデンテ、バストス、パラガスー、さらにはパラナ州、マットグロッソ州からまで患者がやってきたという。もちろん、日本人もずいぶん世話になったことはいうまでもない。治療費の払えない者は収穫物や、労力の提供を申し出ることで治療を受けられた。1949年にトゥッパン市に近代的な病院が出来るまで、この病院は公的な治療機関としての役割を担った。

アリアンサ移住地に与えた影響

 地元バストスではこの当時すでに大規模な製氷施設も持っていたパルマの生産システムに大変興味を持ち、ブラ拓職員がたびたび視察に訪れている。ブラ拓の四大移住地の一つであるアサイ植民地の五十年記念誌にも、支配人だった斉藤公氏が植民地の組織的経営のあり方について、ブラ拓は大変関心を持っていたと述べている。しかし、日本人移住者はパルマの文化活動にはあまり関心を払わなかったようだ。

 パルマの文化的影響を最も強く受けたのはアリアンサ移住地だろう。特に第三アリアンサにあった南米農業訓練所(通称・渡辺農場)に来ていた力行会員の青年の間では、パルマはあこがれの農場であり、「パルマ参り」という言葉まであったという。パルマが外来者を自由に受け入れることもあって、多くの青年が研修に出かけている。

 ブラジルの新しき村と称された弓場農場の創設者弓場勇はトルストイに傾倒し、「光あるうちに光の中を歩め」を読んだ感動から共同を考えるようになったというが、それに決定的な裏付けを与えたのはパルマの存在だったようだ。一般の移住者から見れば無謀とも思える共同農場創設の提唱も、アリアンサの青年たちの間にそうした下地のあったことが、多くの共鳴者を生み出したと思われる。

弓場寛

 彼らは野球の試合を通じてバストスとの交流があり、当時のバストスでは当然パルマが話題になっていたと思われる。弓場勇は共同生活をはじめるにあたって、1933年6月、当時18歳の弟の寛(ひろむ・1915〜1945)をバルパに派遣している。少年の寛はパルマの生活にすっかりなじんでしまって、共同生活を開始するとき、浜村利一がバストスまで行き、渋る寛を説得して連れ帰っている。

 弓場は共同生活をするために必要な知識を積極的にパルマから学んだようだ。その一つとして、弓場の食堂をあげることができる。日本人移住者一般の考える食堂とは単に食事をする場所であるが、弓場は食堂という空間が果たす文化的な役割を重視した。食事をする場が、同時に集会場であり、訪問者を遇する場であり、雑談に興じ、ピアノを弾き、コーラスをする場所となる。こうした土と密着した場で芸術を語るサロンの実現は当時の日本人社会では画期的なことであり、サンパウロの知識人たちにも大きな影響を与えた。アンデレ・クラビンがそうであったように、弓場勇も「来る者は拒まず、去る者は追わず、客人には出来る限りのもてなしを」の態度を終生貫いた。そして、その伝統は今でも引き継がれている。

阿部敬吉さんの話

阿部敬吉さん・1997年撮影

 わたしは明治41年生まれです。宮城県栗原郡旗置村(現材の若柳町)の産で、昭和五年に力行会青年として渡伯しました。第三アリアンサにあった渡辺農場(日本力行会の南米農業訓練所)に入りました。

 パルマ(農場)を知ったのは、アリアンサの野球チームがバストスに遠征したときです。昭和6年(1931年)だと思います。選手が足りないというので、急遽、渡辺農場からわたしと馬場君、竹中君、大西君が加わることになって、それでバストスへ行くことになりました。
 バストスで野球の試合が終わってから、みんなでパルマを見学に行ったんです。パルマまでいくには、バストスからでも40キロあります。歓迎してくれました。みんな感激しましたね。そのとき、弓場勇の弟の寛(ひろむ)と熊谷君が「おれはここでしばらく働いて行くから」といってそのまま残りました。それから、力行会の青年たちの間ではパルマ参りという言葉がはやりました。たしか、アリアンサを視察に来た今井伍介(力行会を支援していた貴族院議員)もパルマを見ているはずです。

農場の郵便局。左側半分は印刷所。

 わたしは1937年頃に斉藤君と一緒にパルマに働きに行って、3カ月いました。自給自足が原則で、とにかくなんでもありましたね。郵便局もあったし、印刷所があって新聞なんかも印刷していました。綿も麻も栽培していて、機織りもやってました。シャッポはへちまを改造してつくってました。ポン(パン)のかまども大きなのがありました。毎日、何百人分ものポンを焼くんですから。そして、食堂なんかもピカピカに磨き上げていました。北欧の連中だからチーズもいいものをつくっていました。パルマのチーズはちゃんと製造日を入れて出荷していたので、大変信用があったそうです。

 製材所の下に川があって、当時のカミヨンで四台分は積める船でバストスまで材木を運んでいました。動力は発動機以外にダムを造って水力発電もやっていました。農機具の製造や機械類の修理もほとんど農場内の鍛冶屋でやっていました。
 パルマには最初は牧師が七人いたそうです。わたしがいたころは牧師はエイヒマンだけでした。
 アンデレ・クラビンは当時は製材を担当していましたね。非常に博識な人でね、ロシア軍の将校として日露戦争を経験していますから、乃木大将のこともよく知っていました。

 日本人と違うなと思ったのは、レトニア人たちはみんなポルトゲース(ブラジル語)を使っていたことです。周囲のブラジル人から、あいつらは共産主義者だと偏見を持たれていたこともあって、ブラジルに住む以上はブラジル語を使おうと意識的に努力していたようです。もっとも、彼らは日本人と違って、レトニアにいるころから日常的にドイツ語、ロシア語、ポーランド語を使っていたのだそうで、語学能力は優れています。

 忘れられないのは、わたしは主にマンジョッカを植える仕事をしていて、畑が砂地だから下着がよごれるんですよ。はずかしいから隠しておくのだけど、あそこの洗濯係は必ず見付け出してきれいに洗濯してくれましたね。
 土曜日の夜は讃美歌の練習日でした。そのハーモニーはほんとうにきれいでした。オーケストラもやってました。
 パルマでは一日働いて2ミル500くらい貰いましたが、みんな教会に献金してしまいました。
 ザーレンという農場部の主任が呼ぶ声をいまでも覚えています。

パルマ農場の現在

 レトニア人も二世代目になると都会へ出る者が多く、バルパの町もかつての面影はない。しかし、バルパの農地はもともと共同出資で購入したという経緯もあってか、離農するときは共同体に返還するという形をとっているらしい。近年はバルパに戻ってくる二世、三世が増えているらしいが、共同管理している土地を再び帰農者に配分するのだという。

 パルマ農場の方は創設の目的が戦争未亡人や孤児を開拓生活に参加させるためであったから、子どもたちは成長するとサンパウロの学校に進学し、そのまま自立するものが多かったようだ。また、信仰心の厚い未亡人たちはほとんど再婚しなかったから、身よりのない老人ばかりが取り残されることは当初から予想されていた。

 1965年には32人の老人が残るだけとなった。そこで彼らは重大な決断を下す。すべての土地と施設をリオのバチスタ連合教会に寄付し、そのかわり残った高齢者の面倒を最後までみてもらうことにしたのだ。こうしてパルマ農場は自ら43年の歴史を閉じたわけである。そうしてわたしの訪れた1996年9月の時点では、3人の高齢の婦人が残っていて、教会から派遣されてきた介護士が婦人たちの世話をしていた。

 ところが、翌1997年6月再度訪れてみると、状況は一変して、パルマ農場の管理はバチスタ協会からレトニア人のボランティア組織に移っていた。管理人のアウズーマさんによれば、リオのバチスタ連合教会は資金不足で悩んでいたらしく、なかなか約束通り面倒を見てくれないし、ついにはパルマ農場の土地を売りにだすという話が出てきた。パルマ側はあわてて1965年当時の取り決めを調べてみると、売ってはならないという一項があったのだという。そこでパルマ側は土地を返還してもらって、独自に資金を集め、文化財として残す運動を始めているのだという。私たちを案内してくれた管理人はパルマ育ちの二世の婦人だった。

 パルマ農場の土地は最初200アルケールだったが、最盛期には800アルケールにまで拡大した。現在は303アルケールが残っている。
 バルパの町には小さな資料館があり、パルマ農場関係も含めて多くの資料が保管されている。資料は文化財として扱われているらしく、保存や分類の作業には郡役場の職員が二人ばかり派遣されて来ていた。

 1988年に出版されたトゥペス夫人の「レトニア人移住地の歴史」によれば、バルパには400人くらいのレトニア人が残っていると書いている。

パルマ風景

 農場の入り口に教会が建っている。もう使われていない教会は鬱蒼とした樹林に囲まれ、「荒城の月」を思わせるおもむきがある。この教会は1931年(昭和6年)に弓場勇の弟寛(ひろむ)が滞在したときに建てられたもので、何百人もの農場員が教会の落成を喜んでいる写真が寛から家族のもとに送られていた。パルマを調べ始めてから、ユバ農場の矢崎氏が弓場勇の撮影した写真を整理していたら出てきたものである。

 管理人のアウズーマさんに案内されて会堂の中に入ってみた。テーブルも椅子もすべて頑丈な手作りである。オルガンもそのときのまま保存されていて、アウズーマさんがそのオルガンを弾きながらきれいなソプラノで賛美歌を歌ってくれた。

 バストス建設にも大きく寄与したという製材所は火事で焼けたそうだが、製材所の動力に使ったと思われるスチームエンジンと、水力発電機の残骸が残っていた。プレートを見ると、年代は判らないが「リンカーン・イングランド」とある。イギリスのリンカーン社製ということだろう。

 発電器を回したダムも今は静かな清流にもどっている。水門に使ったと思われる朽ちかけた柱が何本か立っていた。製材所から材木を運んだという川は幅五メートルほどの小さな川である。彼らはこれを小舟で流せるように整備したものらしい。この川がリオ・デ・ペイシェに出るのだ。

 入植時、老人、女性、子どもたちが命綱をつけて渡ったリオ・デ・ペイシェ河には現在コンクリートの橋がかかっているが、バストス移民博物館には、1922年当時、彼らが全員総がかりで木造橋を建設している写真が展示されている。

1954年に弓場勇が撮影した夫の写真に見入る最後の農場員メイアさん  1997年6月に訪問した時点で、パルマ農場にはまだ二人の婦人が生存していた。九十二才になるというメイヤさんはまだまだ元気そうだった。1952年に弓場勇が訪問したとき撮影した写真に、鍛冶屋部門で働いていたメイアさんの夫の写真があって、「ご主人の写真ですよ」と見せると、オーと声を上げて部屋に駆け込み、やがて大きな虫眼鏡をもって出てきて、懐かしそうに写真をじっと見つめていた。






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