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阿部敬吉さん 阿部敬吉さん(あべ・けいきち)

一九〇八年、宮城県栗原郡旗置村で生まれる。一九三〇(昭和五年)、アリアンサの日本力行会南米農業練習所に入る。一九三八年、パルマ農場に働きに行く。その後、第三アリアンサで農業をつづける。一九九九年十一月七日没。享年九一歳。


馬場秀雄さん 馬場秀雄さん(ばば・ひでお)

 一九〇八年、福島県只見町で生まれる。一九二八(昭和三)年、アリアンサの日本力行会南米農業練習所に入る。所長の宮尾厚を助けて、八年間在籍。その後も隣接地にとどまり、生涯を終える。二〇〇〇年十二月二十七日没。享年九十二歳。



 渡辺農場
 戦前、第三アリアンサに渡辺農場という若者たちの農場があった。日本力行会の南米農業練習所のことだが、家族移住が原則だったブラジル移住では例外的に認められていた単身移住者の受け入れ農場であった。ブラジルに着いた日本力行会海外学校の卒業生はまずここに入所し、ここを足場に各地へ巣立っていった。当時の若者としては学歴者が比較的多かったが、農業経験のある者は少なく、新聞記者や産組の職員、商人になったものが多い。
 農場の所有者は長野県諏訪の殿様だった渡辺昭伯爵だが、これを日本力行会が管理することを兼ね、南米農業練習所の研修農場にしていた。一九二八(昭和三)年五月に開設され、日本力行会海外学校の幹事だった宮尾厚(一八九二〜一九七一)を所長として青年たちの一団がやってきた。

 宮尾厚の奮闘
 所長も研修生も、出来上がった農場に赴任してきたわけではない。広大な原始林の中にやってきたわけである。彼らは自ら宿伯所を建て、原始林を開拓しなければならなかった。研修生は日本から次々送り込まれてきたが、特別に拘束規定はなく、到着早々おそれをなして逃げ出す者もいたし、長くても半年か一年で入れ替わるから、経済的には成り立たず、宮尾は苦労したようだ。
 やっと畑を拓き、コーヒーを植え始めたが、運悪く、翌昭和四年は世界大恐慌のはじまった年で、コーヒー価格も暴落し、以後低迷した時期が続く。資金状態の詳細はわからないが、独立採算だったようで、最初は野菜を作る知恵もなく、食事は塩汁に何でもぶち込むという粗食の毎日だったという。一九三〇年に農家出身の阿部敬吉がやってくると、野菜の栽培を始めた。聖護院大根の種をまくと、まるで桜島大根のような大きなものがとれたという。食卓は豊かになっていった。

 協同化への夢
 宮尾としては日本からの送金もなく、農場の経済的自立を模索しなければならなかった。家族による入植と違って、青年だけの集団農場であるから、若者の間では当然協同農場への志向が生まれはじめる。当時、アリアンサの若者たちの間では「パルマ参り」という言葉があった。バストス移住地に資材を供給し、日本人移住者に綿作や養鶏を伝えたパルマ農場へ研修に行くことである。パルマ農場はアリアンサと同時期の開設ながら徹底した協同農場で、水力発電機を備え、郵便局、製材所、印刷所があり、新聞を発行し、オーケストラも持っていた。野菜作りの阿部敬吉もパルマ農場へ働きに行き、大きな感銘を受けている。(ありあんさ通信5号を参照
 そんなとき、日本から視察に来た福島高等商業の榊原教授から、ロバート・オーエンやサン・シモンのユートピア論の講演を聞き、宮尾と青年たちは本格的な協同組合農場を志向するようになる。そして、ついに自家発電設備を備え、製材所も稼働するようになり、全アリアンサの建設資材供給基地としての役割を果たすようになった。

 農業練習所の終焉 
 だが、農場が渡辺伯爵の所有地という問題もあり、力行会本部は協同組合化を承認しなかった。一九三五(昭和一〇)年初頭、日本から古田純三が派遣されてくる。古田は農場側に同情しながらも立場上、協同組合化を断念させようとする。しかし、農場はもうかつての教師と生徒という関係ではなく、協同組合員の合議制になっていたから、古田と宮尾だけでことを納めるというわけにはいかなかった。若者側にしてみれば、自分たちがほとんど無報酬に近い形で原始林を開き、ここまでやってきたという思いがある。協同組合化を拒否するのであれば全員退所すると強硬だった。
 事態は「協同組合容認か、総退場か」で対立し、古田と若者たちは決裂する。青年たちの夢であった協同組合農場は挫折し、これをもって南米農業練習所は幕を閉じた。この当時、派遣されてきた古田にしても三三歳、若者たちは二〇代である。
 宮尾所長は事実上の解職となり、退所して第三アリアンサに入植。このとき、開設以来、後進の面倒を見てきた馬場秀雄も宮尾と行動をともにする。  古田は本部と相談の上で渡辺農場を農業労働者を雇用する一般の経営農場に切り替え、農場に残った大塚家慶に運営を託して帰国する。

 夢の跡
 渡辺農場は戦後、第一アリアンサの大峡脩(おおば・おさむ)が購入したが、その後ブラジル人に転売、現在は広大な牧場になっている。
 馬場秀雄はその後、渡辺農場の隣接地に移り農業をつづけた。馬場は客が来ると、コーヒーを振る舞いながら、「これがうちの裏庭ですよ」と屋敷の裏に広がる旧渡辺農場を示して静かに笑っていた。
 馬場は敬虔なクリスチャンで、農業のかたわら、終生奥さんの和美さんと第三アリアンサで日曜学校を開きつづけた。

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