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箕輪謹助さん 箕輪勤助さん (みのわ・きんすけ)

一九〇九年、長野県佐久市に生まれる。一九二三年に関東大震災を経験し、一九二八年、日本力行会員としてアリアンサに開設された南米農業練習所に入所。一九三五年の弓場農場開設に協力。一九三八年、弓場農場に参加。弓場勇とともにアリアンサの村づくり運動で活躍。
一九七六年弓場勇亡き後は、長老として外来者の対応を受け持つ。ありあんさ通信のアドバイザーでもあった。
 二〇〇三年二月、ユバ農場で没。享年九四歳。

 林田鎮夫のこと
 アリアンサができる前にこの一帯を持っていたはマッシャードというブラジル人だが、その代理人が上院議員だったミランダです。ここの役場があるミランド・ポリス市はミランダの街という意味です。そのミランダの農場の支配人が熊本出身の林田鎮夫でした。輪湖さんはこの林田と交渉してアリアンサの土地を買う話を進めたわけです。
 アリアンサがうまくいきそうだというのを見て、林田はすぐ熊本海外協会に掛け合ったんです。それで第二アリアンサができるのとほぼ同じ時期に、熊本移住地(ビラ・ノーバ移住地)ができたわけです。その次が第三アリアンサです。
 林田はシンコエンタ(駅から50kmの意味・地名)のそばに農場を持っていました。林田はもともと測量士で、それでミランダに雇われたんだと思いますね。輪湖さんがアリアンサの土地を買ったんで、林田はその報酬にシンコエンタの土地を貰ったんだと思う。
 註・ブラジルでは土地の売買があると、たとえ公的な取引であってもそれ相応のマージンを受け取る商習慣がある。
 はじめはシンコエンタにノロエステ変更線鉄道の駅が出来ることになっていたんです。もしそうなれば林田は大儲けするはずだったんですよ。ところが、大地主たちの政治的な駆け引きで、結局もっと離れた、今のミランドポリスに駅ができてしまったから、林田の土地は金にはならなかった。
 林田はピストルの名手でした。百メートル離れた位置からビール瓶の頭を打ち抜くのを見せてくれたことがあります。だからブラジル人(労働者)は林田を恐れて、何を言われても「シン・セニョール(ハイ、旦那様)」です。開拓初期はよくブラジル人同士のピストルの撃ち合いがあってね、物騒でした。山伐りには専門のブラジル人請負師がいて、みんなピストルとホイセ(山刀)を持ってました。

 弓場農場の始まり
 弓場さんが集団農場を作ろうと言い出したのは昭和九年頃です。最初は渡辺農場(南米農業練習所)の宮尾所長に相談したら、農場が管理しているマット(原始林)があるんで、好きなところでやれと言うことだったようです。
 わしは瀬下さんのとこで働いていたんで最初からは参加できなかったが、どういう仕組みにするかと言うことでは、弓場さんは瀬下さんのとこへ来て相談していました。輪湖さんも顔を出して熱心に議論してましたね。
 輪湖さんや瀬下さんは経験があるからいろいろ意見を出すんだが、弓場さんは新しいことをやるんだから古い経験じゃだめだって、聞かんのですよ。輪湖さんは「強情なやっちゃな」と笑ってました。
 資金がないからね、食料や道具を購買からツケで買うんだが、金を払わないもんだから売ってくれんのですよ。そうすると、斉藤さん(創立メンバーの一人)が瀬下さんのとこに頼みにくるんですよ。瀬下さんはおとこ気のある人で、 自分のツケで買わせていました。
 弓場さんという人は確かに傑出したリーダーだったが、アリアンサにはそれを黙って応援する幹部がいたことも事実です。ほかのとこだったら、自分の言うことを聞かない奴の応援なんかせんでしょう。
 昭和十年頃、ブラ拓が新しい移住地を売り出したんで、メンバーの何人かの名義で土地を買って、それで本格的にはじめたんです。
 註・輪湖俊午郎は一九三四(昭和九)年にアリアンサの理事を辞任して去るが、昭和十六年に日本で発行された「ブラジルに於ける日本人発展史」に一節をもうけて、弓場農場を「新しき村」として紹介している。

 戦中戦後のユバ農場
 戦争中は日本語は使っちゃいかんだの、三人以上集まってはいかんだのとうるさかったんだけど、弓場農場だけは例外でした。弓場はサンパウロに食糧を供給していたから、警察も黙っていました。何しろ多いときには二百人以上働いていたし、食事はみんな一緒ですからね、自由に集まって日本語をしゃべれたのは弓場だけですよ。
 戦後、勝ち組負け組で騒ぎになった頃、弓場農場には狙われている連中が両方から逃げて来て、食堂で一緒に飯を食っていました。弓場なら安全ですからね。

 第三の松沢さんのこと
 農場では戦争末期には十人くらい、行き場のない老人や知恵遅れの人を預かっていました。第三アリアンサのリーダーだった松沢さんもしばらくいました。人と喋ることもなく、ただ黙って飯を食っていたが、あの人はずいぶん自分を責めていたんだろうと思うねえ。
 註・松沢謙二氏は昭和二年に富山県移植民協会の理事として第三アリアンサに入植。昭和六年以後、日本側の移住地政策変更の混乱で住民との板挟みで苦労され、昭和九年に理事を辞任。土地を持たなかったため悲惨な生活を送ったという。

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