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自然への感謝と祈り

食前に黙祷する習慣がある。年長者が「黙祷」と合図し、1分間黙祷をする。 食事はバイキングスタイル。まず来客、それから子ども、老人、大人とつづく。 創設以来、つの笛の音が響き渡ると食事の合図である。これは女性の担当。
食前に黙祷する習慣がある。年長者が「黙祷」と合図し、1分間黙祷をする。 食事はバイキングスタイル。まず来客、それから子ども、老人、大人とつづく。 創設以来、つの笛の音が響き渡ると食事の合図である。これは女性の担当。

 食事

 ユバの食事は農場の大食堂で一緒にテーブルを囲んで食べる。その日畑で穫れた野菜、乳製品を中心にしたバイキング方式だが、まず来客が優先される。通りがかりの人、近所の人、旅行客、パトロールで立ち寄る警察官、すべて大事なお客さんである。ついで子供、老人、大人とつづく。
 家族で集まるテーブルもあれば、若者達で集まるテーブル、女性だけで集まるテーブル、来客を応対するテーブルとさまざまである。別に決まりがあるわけではなく、なんとなくグループが生まれる。食事が終わると、雑談の場になる。
 メニューは和風六割、ブラジル風四割といったところ。炊事班が三班あり、一週間交替でそれぞれ得意料理の献立が立てられる。
 米食、野菜サラダ、味噌汁は毎食必ず出される。時には、桜餅、ショートケーキ、そば、そうめんなども出る。味噌、醤油、納豆、漬物、ジャムもすべて自家製。余剰分は販売して現金収入に当てている。

 感謝の祈り

 この農場には創設以来、規約・規則というものがない。農場加入の条件は 「耕し・祈り・芸術する」意志があれば、能力のあるなしにかかわらず誰でもよいとし、気風が合わなければ自由に退場してよいというのが申し合わせであった。
 「祈り」については多少注釈が必要である。創設者弓場勇の育った家は、覚前政吉という明治時代に日本人最初の聖公会宣教師を送り出した家であり、明治初期からの熱心なキリスト教徒である。しかし、勇自身は教会宗教を拒否し、他人に勧めることもなかった。
 「百姓は自然の大法則にしたがうことによつて自分の仕事ができる。百姓には賢愚のちがいや老若の差はほとんどない。それがわかると人間は誰でも謙虚な気特になる」と言うのが弓場勇の持論で、彼にとっての神は大自然の法則であった。
 ただ、食前の黙祷だけは創設以来の伝統だという。これは外来者も含めて食事するため、来客に違和感を与えず、自然への感謝のしるしとして一分間だけ自分の内部を見つめる時間を共にするということである。
 かつてユバの食堂には東本願寺法主の大谷光暢師や、キリスト教社会運動家賀川豊彦、日本の評論家大宅壮一らも訪ねてきて、一緒に食事をしている。近年はブラシル政府の要人や文化人も多く訪れる。

 弓場勇の評価

 弓場勇は一九二四(大正一三)年、十九歳の時、東京・練馬の小竹町にある日本力行会海外学校に入学。アリアンサ移住地いかにあるべきかについて仲間と議論する日々を送っているが、本人の述懐によれば大して深いことは考えていなかったという。アリアンサへ到着したのは翌年六月だが、大原始林の中に降り立った時、それまで柔道と野球しか知らなかった弓場は大原始林の神聖さに打たれ、祖国を忘れた移住はその意味を失う。処女地に新しい文化を築くという、それまで考えたこともない言葉が脳裏に浮かんだという。
 弓場は終生「協同の文化を築くことなしに日本移民の未来はない」と叫び続け、また焼き畑で移動を続ける移民たちに定住をすすめ、日本式の施肥農業による土地の活性化を呼びかけた。そのために野球チームを作り、あるときは鶏糞を利用するため、南米一と言われる大養鶏場をつくりあげる。そして、現在評価の高い農民バレエ団を育て上げた。
 しかし経済的尺度しか持たない移民社会指導層からすれば、それは怪物ドン・キホーテとしか映らなかった。現在でも日系移民社会ではカリスマ性を持った独裁者といった実態とはかけ離れた弓場勇怪物説がまことしやかに語りつがれている。また、日本文化の継承を力説したため、敗戦後の知識人の間では右翼主義者と批判する人すらいた。
 弓場勇をどう見るかは、見る側の価値観による。モノとカネで世界を見る日本人から見た弓場勇は、合理性を欠く非常識なドン・キホーテとしか映らないが、逆に多文化共生の価値観に立つブラジル人は、日系ブラジル文化の思想家として高い評価を与えている。

 「新しき村」との違い

 大正時代に武者小路実篤によって設立された新しき村も農業を基本としながら芸術による人間性の開花を重視した農場である。このため新しき村と関係があるのかとよく聞かれるが、関係はない。ただし、文通などによる交流はあったようで、日本で発行された新しき村の機関誌新しき道一号(一九五四年四月号)と一九五八年十一月号には弓場農場の近況が紹介されている。
 しかし、新しき村とユバでは設立の目的が違う。新しき村が世俗から隔絶したユートピアをめざしたのに対し、ユバは荒廃したアリアンサの村おこしのために設立され、倒産してもまた甦り、生き続けて来た。そして今なお自発的に村の文化センター的役割を担っている。

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