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アリアンサ運動の歴史
第三部  ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

六、コーヒーより人を作れ

 *組織名称について
 従来のアリアンサ関連の歴史書『創設十年』『アリアンサ移住地四十五年史』『第三アリアンサ五十年史』などでは、ブラジルにおける連合会の動きを現地代行機関の名称「有限責任ブラジル拓植組合」あるいは略称「ブラ拓」としているが、ここでは日本側との関係を明確にするため、その実体としての「海外移住組合連合会」または略称「連合会」、昭和十二年以降は「日南産業株式会社」を使用する。

  連合会の一括管理提案

 四移住地統一が破棄されたことで、永田が何よりも恐れたのは住民の動揺による自治の崩壊と、前回の内務省方針以上にアリアンサ切り捨て策が展開されるのではないかということだった。平生新理事長は移民問題とは無縁の存在であっただけに、従来からの移住関係者とのしがらみもなく、その改革はあくまでも国内事情からの徹底した合理化を推し進めることが予想された。
 新専務の宮坂は即刻ブラジルへ旅立っていた。永田稠もアリアンサ再建のため、三たびブラジルへ旅立つ。ブラジルへ向かう船中、香港沖で書いたとされるその時の心境を綴った文章がある。

資料10 『力行世界』昭和六年六月号 P.2

 この喜ぶべき法律はこれが実施さるるに至るや、全く素人と野心家の手中に落ちてしもうた。それがためにこの法律の全能率を発揮することが出来ない悲むべき事情に陥ったのである。ただ、梅谷光貞氏の非常なる決断と努力によって、とにかくブラジル国に二十万町歩程の土地を購入することが出来て、移住地建設の土台を築かれたことはせめてもの慶賀であるが、移住者送出の重大なる要件について、外務省にては石井(射太郎)課長の後任者によって移住組合法の精神が蹂躙され、出先き官憲の盲目と無理解とによって、円満なる発達は障害され、加うるに、内地に於ては私利を謀る者のために翻弄せられて、充分なる発達を逐げることが出来なかったのは誠に遺憾である。ある者は移住組合無用論を主張しておるが、私は今日でもなおこの法律と、この組合とに対しては多大なる望を有している。ただ、その死活は今後これを運転活用の如何にかかつているので、これに関係ある諸氏の奮闘を祈るの外はない。(香港沖にて)

 輪湖がアリアンサへ帰り着いたのは一九三一(昭和六)年六月二十日である。輪湖が一年半不在の間に待望の四移住地統一は実現不可能となり、住民と組合事務所の間には対立が生まれ、産業組合もいくつかのグループに分裂していた。それぞれの移住地は所属県ごとに立て直しを図らなければならないが、本国側へ問い合わせても何の反応もなく、送金も途絶状態で、住民の不安は増すばかりだった。

 連合会新専務の宮坂国人はすでに五月二十六日にはアリアンサを視察していた。宮坂はアリアンサ四移住地に「連合会一括管理案」を提案してきた。移住地側が主体となる一括ではなく、ブラジル拓殖組合(海外移住組合連合会)に経営権を譲渡し、直営の移住地になれという要求である。まず経営が破綻しかかっていた熊本移住組合が連合会への移管に同意する。


  コーヒーより人をつくれ!

 七月十日には永田稠がアリアンサに到着。永田は直ちに各移住者を戸別に訪問して実状をつかんだ上で、連合会の一括管理案を拒否する。鳥取、富山も一応信濃と共同歩調をとるが、宮坂は各組合個別に説得を強める。海外協会が経営する時代と違って、各県組合が単位となっているため、統一した対策は立てにくかった。

 永田が一括管理案を拒否した理由は、移住者より国の利益が優先する産業重視政策は危険だと判断したからである。まず何よりも困難に耐え抜ける精神的に自立したアリアンサを再建することが重要だった。永田は各戸を訪問し、意見を聞くと同時に行くべき方途について熱心に説得して回った。この時の「コーヒーより人をつくれ!」はその後のアリアンサの立ち返る原点となった。コーヒーより人をつくれ!は永田のもともとの持論ではあったが、このときこそ、押し寄せる困難に立ち向かう強い人間の和をつくる以外に方法はなかった。

 永田はまず第一アリアンサの再建に着手する。住民の自治組織であるアリアンサ会の会則を住民自身によって検討させ、つづいて経済組織である産業組合の更正案をつくらせ、移住地幹部会を選出させた。

1931(昭和六)年のアリアンサの人口
第一アリアンサ244家族1,230人
第二アリアンサ127家族643人
第三アリアンサ96家族468人
467家族2,341人

  信濃・鳥取の分裂

 実は連合会によって四移住地統一案が棄却された二月、鳥取移住組合の後藤侃司理事は県の意向を確かめるべく、日本に帰国していた。永田が立て直し工作に入って八月二十二日、後藤理事は再びアリアンサに戻り、信濃との共営を破棄し、アリアンサからの独立を声明。永田は数度にわたって後藤を説得したが、鳥取側の意向は堅く、三十一日には鳥取扱いの移住者によって鳥取農会と鳥取産業組合が設立され、六年に及ぶ第二アリアンサの共営は終止符を打った。信濃・鳥取両組合それぞれに所属する住民共営の自治体・第二アリアンサ会も解散する。

  アリアンサ会の再生

 第一アリアンサ会の更正も思うようには進まなかった。八月二十三日、第一アリアンサ最高幹部会はアリアンサ会の会則に従わない組織は一切公認しないことを決議。これについては統一を拒否するグループがあり、小競り合いが続く。反発する住民グループは永田の宿泊先である輪湖邸の井戸に石油を流し込むという荒れようだった。

 九月二十日、永田が活動を開始してから七十日目に、さすがに反対派も永田の説得に応じて協力に合意。新しい第一アリアンサ会が確立する。

 第二、第三アリアンサにも同様のアリアンサ会が発足。産業組合も同様に統一された。そして十月十日、鳥取を除く全体がアリアンサ会連合会、産業組合連合会を設立する。予断を許さない情勢に対して、精神的連帯による自立の見通しをつけ、一九三一(昭和六)年十月二十日、永田は帰国の途に就く。滞在百日間であった。アリアンサはその後も様々な困難が続くが、その都度、「コーヒーより人をつくれ」は合い言葉となった。

  富山移住組合の事務所閉鎖

 第三アリアンサでは昭和八年五月、富山移住組合事務所閉鎖問題が起きている。
 富山理事の松沢謙二は開設以来信濃との協調に心がけ、第一、第二のような紛争もなく、アリアンサではもっとも安定した移住地であった。第三アリアンサには力行会の渡辺農場(南米農業練習所)があり、たえず力行会の海外学校から青年たちが送り込まれており、アリアンサらしい気風に満ちあふれていた。

松沢謙二宮尾厚

 松沢は農学校の教師であり、同じ教師出身の渡辺農場長宮尾厚とは相通ずるところがあったようで、この移住地は文化事業に熱心だった。松沢の呼びかけで設置された第三アリアンサ図書館には岩波書店や日本力行会から新刊図書が寄贈されており、夏目漱石全集の初版本が並んでいたという。また、宮尾厚は熱心なクリスチャンであり、協同組合論者であった。ロバート・オーエンの協同組合論やサン・シモンのユートピア論についての講演会が開かれたという記録も残っている。

 しかし、四移住地統一問題が挫折して以来、富山県からの送金は途絶え、松沢は運転資金、事務経常費の欠乏に苦しんでいた。その上、開設時に罹病したマラリヤが悪化し、生活は困窮をきわめていた。
 松沢は信濃の北原、渡辺農場の宮尾らと協議を続けるが、開設時と違って運営権が海外移住組合法によって富山県移住組合に移されたため、富山県の意向を無視しては何事も行うことが出来ない。再三の要請にもかかわらず富山県からは一切送金がなく、連合会への経営移管問題についても、県側からは「了承しがたい」との反応があるだけだった。松沢は辞任を要請するが、これも県によって握りつぶされたままだった。

資料11 『創設十年』「第三章・第三移住地」 P.280

 両者(信濃・富山)の関係は車の両輪の如くよく協和協調、移民地の発達に資したので他に見られない平和郷も実質的には幾多の難関があり、殊に移住地経営資金の欠乏は漸く深刻を加へ、土地代は昭和三年富山移民協会が移住組合へ肩替りすると同時に聯合会から借り入れ、一時的彌縫をなしたが其の後の経常費の送金全く杜絶し、松澤幹事はこの苦境に堪へ兼ね幾度か辞表を本部に提出した。一方、本部に於ては海外事情に不案内の為めそう軽々しくこれを裁断し得ず、これを握り潰して居た。
 松澤幹事としても止むなく其の後も再三移住地更生策を本部に進言、財政的打開を献言したが経済的行詰りは依然旧態を脱しないのみか遂には全然経常費にさへ事欠くに至ったので、同氏は昭和八年五月二日信濃移住組合理事北原地価造氏を訪ね、移住地今後の対策について考究したが大した名案も得られず、一方問題になって居たブラ拓管理案も本部に於て難色ある模様であるので、最後的手段として遂に意を決し同月八日第三移住地事務所閉鎖を声明した。

 ついに松沢は独断で事務所を閉鎖し、住民自治体である第三アリアンサ会に事業の継続を依頼する。アリアンサ会も再三総会を開き、打開策を試みるが、どうすることもできず、ついに連合会移管となる。
 県側からの送金がないことはアリアンサから独立した鳥取の場合も同様で、鳥取も連合会に移管される。


  今井五介の訪問とアリアンサ運動の終焉

 信濃は鳥取、富山の連合会移管後も独自経営を続けるが、昭和八年のカスクード(金券)問題は信濃アリアンサの存続を左右する危機となり、第三次危機と呼ばれている。全アリアンサを取り仕切って来た信濃は開設初期から資金欠乏のため、アリアンサ内での購買、取引のために金券を発行していた。現金が必要な場合は事務所で現金化できる約束手形である。初期のものは厚紙に輪湖・北原の印鑑を押し、手書きで金額を書き入れた粗末なものである。村人はそれをカスクードと呼んでいた。カスクードとは湖沼に生息する小魚のことである。このカスクードは中心都市アラサツーバ市でも通用していた。

 鳥取、富山が連合会に移管され、信濃が孤立するに及んで、信濃はカスクードを精算しなければならない事態に追い込まれていた。

 昭和八年十月、長野県から信濃海外協会の西沢太一郎本部理事が来伯、アリアンサの再建策を模索する。少し遅れて、日本蚕糸会遣米使節団代表として渡米していた今井五介が、高齢にもかかわらず帰途ブラジルへ飛び、はるばるアリアンサを訪問している。今井五介は到着早々まっさきにアリアンサ墓地へ向かったという。海外協会中央会長として海外移住組合法制定運動を起こしながら、思いがけない展開でアリアンサを苦境へ追い込んだことを詫びたのかもしれない。今井はアリアンサの苦境を知り、二万ドルを融資して帰国している。アリアンサはこの金で金券を回収、無事危機を乗り切った。

 一方、ブラジルの政情としては日本が一九三二(昭和七)年に国際連盟を脱退したのを機に、日本人に対する警戒感が高まり、遠からず日本移民抑制を意図した外国移民二分制限法()が制定されることも確実になった。後続移住者が少なくなれば、移民社会の孤立は深刻化する。信濃としても住民保護の観点から、孤立を避けなければならなくなった。

 一九三四年二月、再建策を模索してきた西沢本部理事は信濃の有力者を招集し、重大声明を発表する。日本の国際的孤立が進む中ではもはや孤立の道を歩むことはできず、理事会は創設以来の理事、輪湖俊午郎と北原地価造の退任を決断し、後任の新理事によって将来に備えるという衝撃的な内容であった。以後、信濃は連合会との併合に備えることになり、アリアンサ運動は事実上の終焉を迎える。輪湖はこれを機に移住事業から身を引いた。

 大正十二年、産業組合法の活用を拒否されたアリアンサが四年の歳月をかけて実現させた海外移住組合法は一県一村移住地政策に奪い取られ、さらに四年の闘いでやっとたどりついたはずの四移住地統一も連合会の産業基地政策によって排除された。それでも屈せずわが道を歩こうとしていたのである。『創設十年』の年表には「非常なセンセーションをおこす」とだけ記載されている。

 註・「外国移民二分制限法」 一九三四年七月ブラジル憲法改定によって制定。外国移民は移民開始以来の全実績に対する2%に制限される法律。それまで年間二万人が移住していた日本移民は年間二千八百人以下に制限されることになる。


  海外移住組合連合会の日南産業への転換

 アリアンサ問題を解決した海外移住組合連合会は、一九三七(昭和十二)年四月二日、第七〇回帝国議会法律第四十三号によって、資本金一千万円の日南産業株式会社に改組され、戦略資源確保を目的とし、活動範囲をブラジルから東南アジアに拡大する。ブラジルにおける事業はブラジル拓植組合を独立子会社とし、日南産業から社員を派遣した。

 連合会は一九三五(昭和十)年に銀行部(後の南米銀行)を開設しており、日南産業になってからは商事部、綿花部、鉱山部を開設している。移住地では綿花、絹、ハッカの生産が奨励され、鉱山部では武器製造に必要な工業ダイアモンドをはじめ、雲母、水晶などを日本へ輸出している。

 熊本・鳥取・富山の連合会移管は熊本が一九三一(昭和六)年七月三十一日、鳥取が一九三三(昭和八)年四月一日、富山が一九三三(昭和八)年十二月一日、それぞれ連合会と委任管理協定を結んでいる。正式調印は手続き上、この日付より後になる。(『日本人発展史』P.65)

 信濃移住組合は一九三八(昭和十三)年五月二十八日、日南産業(ブラジル拓植組合)と昭和十六年までの期限付きで運営権移管を調印している。しかし、日米戦争の開始で一九四二年からは日本人の資産は凍結され、サンパウロ州政府の管理下に組み込まれることになる。


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