homeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

アリアンサ運動の歴史
第三部  ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

七、大正デモクラシーの遺産

  アリアンサ運動の継承

 大正から昭和にかけてのアリアンサ運動の歴史はまさに嵐の中の苦難に満ちた道のりであった。理想の村を夢見て移住しながら、アリアンサの現状に失望して都市部へ出て行った移住者も少なくない。だが、アリアンサが掲げた理想とは、安楽に暮らせる美しい村を意味するものではなかった。アリアンサ(共生・協力)の名のごとく、たえず共生と自立をめざし、困難とたたかって村を築くことを意味していた。

 一九三七(昭和十二)年以来、ブラジル政府の日本人、ドイツ人、イタリア人に対する敵視政策は強化され、外国語(日本語)教育の禁止、外国語(日本語)新聞の発行禁止とつづき、一九四一年に太平洋戦争がはじまると、サンパウロ州保安局は「敵性国民に対する取締令」を公布、日本人三人以上の集会、移動・旅行が禁止された。日本人社会は身動きが出来なくなる。

 理想への夢は断たれたかに見えたが、四移住地統一案の挫折とともに、力行青年の間に新しい動きがはじまっていた。弓場一党と呼ばれる弓場勇を中心としたグループが野球チームの遠征を通じて、各地の日本人移住地の実状を調べ、村おこしのための協同農場を検討していた。そして一九三三年から第三アリアンサ渡辺農場の一隅に、宮尾厚所長の了解を得て協同農場を試みていた。

 連合会は一九三四年からアリアンサに隣接するフォルモーザ移住地の分譲を開始する。弓場グループは一九三五(昭和十)年四月、買い手のつかなかった傾斜地七〇ヘクタールを共同出資で購入、文字通り食うや食わずの協同生活を開始する。同時に青年たちに呼びかけて、移住地の道路整備を始める。さらに、移住地の農業を略奪農業から施肥農業に転換させるために養鶏事業を展開する。この運動は多くの青年たちを結集し、ブラジル移民社会で初めての産業青年運動となり、ブラジル移民社会に広がっていく。

 ブラジル社会との共生をめざした運動の実績は、日本人敵視政策が強まる中にあっても友好的なブラジル人の協力を受けることができ、弓場農場のサンパウロ市場への鶏卵出荷が可能となり、弓場は村おこしの中心となっていった。日本人の集会禁止が公布されても、アリアンサでは他の日本人移住地にくらべるとことさらに圧力を受けることもなく、野球の試合も黙認されていた。野球の試合は住民同士の情報交換の場となっていた。


  日南産業の解体とブラ拓の解散

 一九四五年、日本の敗戦とともに日南産業株式会社は機能を停止、解体される。そして一九五〇年の第七国会で海外移住組合法とともに姿を消した。この時点ではまだ日本人の資産はブラジル政府によって凍結されたままであり、精算は不可能であったが、内閣提出第一二号として提出された「海外移住組合法廃止案」はほとんど理由を問われることもなく承認されている。

 外務委員会の議事録を読むと、政府側は「海外移住組合法は国策的に移民を扱うという傾向があったので、新憲法の建前上、適当ではないと考え‥‥」といった説明がなされただけで、その実態・内容についてはまったく触れられていない。こうして戦前三十三年間にわたってブラジルへ送り出された二十万人の運命は日本人から忘れられていくことになった。


  生きつづけるアリアンサ・コミュニティ

 一九五一(昭和二十六年)年、創設者永田稠夫妻はブラジル力行会の招きでブラジルを訪問している。一九三一(昭和六年)のアリアンサ再建以来二〇年目である。このとき、信濃アリアンサは日本側の出資者および資金借入者に対して三十万円の精算を行い、信濃海外協会を通して四十倍にあたる千二百万円を返済している。戦争をはさんだ二十七年目の返済である。

 また第三アリアンサの富山からの移住者は、日本を出発する際の「県庁から借りた金を返金するため貯金組合をつくっていたので、その金を届けてもらいたい」と、永田に八万五千円をことづけている。帰国後、永田が富山県庁へ行って調べて見ると移住者たちが借りた金は元利含めて二万八千円にすぎなかった。彼らは二倍以上の金額を返済したわけである。(『頌寿記念』P.110)

 海外移住組合法はアリアンサを翻弄しつづけたが、試練に耐え抜いたアリアンサは戦後の祖国が窮乏にさらされていることを思い、返済を急いだものと思われる。アリアンサにはそうした日本人らしい健全なコミュニティが生きつづけていたのである。

 ブラジルの高度経済成長期、アリアンサは常に時代遅れの村と云われつづけた。だが、この村は物の豊かさに引きずられることなく、多くの日系人の地域が姿を消してしまった現在も、ミランドポリス郡行政下にありながら日系の村アリアンサとして生きつづけている。そしてアリアンサの文化センター的役割をになってきたユバ農場は、日本移民100周年にあたる二〇〇八年、ブラジル連邦政府から日系団体としては初の文化功労賞を受賞し、日系社会を驚かせている。

 アリアンサの先駆者たちが後世に残した遺産は、他人より豊かに暮らせる村ではなく、異文化と共生し、人間が人間らしく生きる村を理想とする大正デモクラシーの文化であった。日本での大正デモクラシーは可能性に過ぎなかったが、アリアンサはそれを自らの生き方としたのである。

 次へ


back home