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私の兄弟は、千里兄さん、正子ねえさん、そして幸子ねえさんです。千里は20才で、2年前からバウルーのウネスピーの大学でコンピューターの勉強をしています。バウルーはちょっと遠いので、たまにしか来ることができません。大学のおもしろいことや色々なことを私とよく話します。ちょっとけんかするけど、兄さんが来る時をとても楽しみにしています。
正子ねえさんは今年、お母さんと3月30日から日本で出稼ぎをしてます。毎週土曜日か日曜日に電話をかけてくれます。少しの時間しか話せないので、いつも手紙を書いています。
二人が日本にいるので、家はちょっと悲しい気持ちです。そして、幸子は私とお父さんといっしょに家のことや畑の仕事をしています。お母さんはいないので、二人でそうじ、料理、そしてたまにはお父さんの仕事を手伝います。
8月から幸子は英語の勉強をやり始めたので、火曜日と木曜日は6時20分まで家に帰りません。だから、その日には一人でそうじをし、夕飯を作らなければなりません。ちょっといやな時があるけど、お母さんもいないし、しなければだれもしません。けど、ほかの日には、幸子といっしょにやります。よくけんかをしていましたが、もうけんかするのをやめました。どうしてかというと、けんかしてもほかの兄弟と話ができないからです。
今、私たち兄弟はいっしょに暮らしていません。けど、力を合わせがんばって、今から6年たってみんないい大学を卒業し、お父さんとお母さんの一番の夢をじつげんするためです。そして、私は両親におんがえしをするまでがんばるつもりです。
8月28日、夜の八時から森本先生が第一アリアンサの会館でお話をしました。私は8時から10時までいたけど、むずかしい日本語だったのでじんこうの事と英語、日本語の授業料の事しか分かりませんでした。
それといがらしさんが言った子どもの時はっぱを足にはさんで歩いた話も分かりました。
さいしょにわたされた紙のテストでたくさん覚えました。ねむくてちょつとしか分からなかったけど、がんばってさいごまでお話を聞きました。森本先生の後、かじもと先生がブラジル語で十分ぐらいかかってやくしました。
その十分のお話を聞いて、とてもだいじなお話だったことが分かりました。みんなぼんおどりとか、カラオケとか日本の習かんを続けているけど、言葉にかくされた気持ちはわかっていません。言葉をもっとだいじにしないと、本当の習かんを知る事ができず気持ちが伝わりません。
このお話をきかいに、私達は日系人である事と、日本語の大切さをもっとよく考えなおさなければいけないと思いました。そして形だけでなく、日本の心のこもった習かんを続ける事ができたらどんなにすばらしいかと思います。
1500年4月22日、ペードロ・アルバレス・カブラーウはポルトガルから未知の国にむかって船で出発しました。そしてブラジルをはっけんしました。
ブラジルにインジオがすんでいました。せいかつもしゅうかんもちがう人たちでした。たくさんの動物が住んでいて、ことりたちもにぎやかにさえずっていました。
五百年すぎて、今はこの国はかんぜんにかわっています。げんしりんにかわって いえやこうじょうがたてられました。だいとしでは、こうがいのためにくうきがよごれています。毎日じどう車やこうじょうがけむりを出して、くうきをおせんするからです。
でも、わるいことばかりがおこったわけではありません。たとえば、テクノロジーです。コンピューターやテレビやれいぞうこなどは人間がはつめいしたすばらしいテクノロジーです。人間はいろいろなほぞんしょくもはつめいしました。私たちはほぞんしょくが体にわるいということしっていても、それを食べています。それからたばこやおさけやかくせいざいも作りました。そして人間は、これらのものにいぞんする人がとてもふえています。
このようにして、せかいもブラジルも毎日かわっています。もう五百年たったらどのようになっているでしょうか。できるならそのとき私はいきていて、それを見たいと思います。