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弓場農場日本語校作文

私が舞台に立つ時

熊本 早(15歳)

 今年、私は15才になり、高校生になりました。
 今まで、いろんな事を学んでいく中で、よく人前や、あるいは舞台に立って何かを表現する機会が与えられてきました。 また、弓場農場で育った私は、子供の頃からバレエ、それに演劇を習って来ました。父に似て、小さいときから私は体が固く、レッスンを受けていると他の子よりも足が上がらなかったり、また、腰も鉄の棒のようで後ろにもそらず、しなやかで、細い竹のような、周りの友達の体がうらやましくて仕方がない毎日でした。そんな中でも、バレエの本番である公演があると、誰よりもはりきっている自分がいました。
 踊りにはリズムがあり、足が上がらなくても、腰が曲がらなくても、私にはとても楽しく、小さい頃から舞台で飛び跳ねてきました。お客さんがたくさんいるときでも、緊張感よりも、楽しさや踊れる嬉しさの方が強かったように思います。
 演劇でも、六歳のときに初めて「ピノキオ」の芝居に出演しました。私の役は、学校に行くたくさんの子供たちの中の一人で、出演とはいっても、ただ石けり遊びをしながら一度だけお客様の前を横切る、そんな小さな役でした。それでも私にはすごく嬉しく、そしてとても楽しみな一場面でした。
 ある時、近くにバレエ公演に行ったときのことでした。その日は大変寒く、風の冷たい日でした。軽くストレッチをしただけで舞台に立った私は、ジャンプした瞬間、緊張とその冷たい空気で固まっていた左足首が横にねじれ、転んでしまいました。
「しまった!」と思った私は、急いで立ち上がり、また踊り始めましたが、足首に力が入らず、痛みが激しくなって踊れません。その時、袖幕で見ていたお父さんが、小さな声でしたが、どなるようにして「さき、無理するな。出てこい!」といっているのが聞こえました。
 幸いその踊りは最後まで踊りきることが出来ましたが、最後の踊りには出られなくなり、足を氷で冷やしながら、痛さなのか、悔しさなのかわからない気持ちがこみ上げてきて、涙がこぼれてきたのを覚えています。
 このことがあってからの私は、必ず本番の40分前にストレッチに入り、身体をほぐしたり温めたりするようになりました。
 最近、私が感じることは、踊りでも芝居でも、舞台の上にはいつもドラマがあり、その創造の世界は、見る人を楽しませたり喜ばせたり、また元気を与えたりするような力がある、と思っています。また、それによって私たちもエネルギーを与えられていることに気がつきました。
 舞台と客席との空間。それは、いつもいろんな色に染まります。その小さな空間が、今日はどんな色に染まるのだろう、と考えながら、それを楽しみにして、私は今日も舞台に立っています。


アリアンサに生まれて

熊本 舞(17歳)

 サンパウロ市から、西へ600キロほど離れたミランドポリス郡に、私達の村、アリアンサがあります。
 アリアンサは、今年で入植76周年を迎え、現在800人近くの日系人が住んでいます。
 私は、アリアンサにあるユバ農場で生まれ、17年間共同生活をしながら育ちました。現在は、村にある州立高校の二年生です。
 高校生になってから、私達の日常の会話は必然的に進学のことや将来について話し合うことが多くなりました。 そんな中で、この前私は同級生のみんなに「みんなは大学を卒業したらアリアンサへ帰ってくるの?」と聞いてみたところ、大半の人は「絶対に帰ってこない」と答え、また何人かは「わかんない」と答えました。誰一人「帰って来る」と答えたものはいなくて、この事は私の心に大きなショックと悲しみを与えました。
 そして最近農場を訪れた、鳥取県でNHKのディレクターをしている、松崎さんに聞いた話を思い出しました。
 日本の、農村の若者のほとんどが都会へ出てしまって、村の若い農業者の平均年齢は41才以上と、とても高齢化してしまっているということです。
 毎日の、厳しい労働を必要とする農業。それに値しない農産物の価格などに失望するのか、アリアンサでも毎年若者の数が減ってきています。
 都会の大学を卒業して、アリアンサへ帰ってくるのは本当に少数の人だけです。昔はとても活気があったといわれる、青年会や青年野球も、今では若者の数と共に活気を失いつつあります。
 私は、週に一度村の日本語学校で、先生の助手として小学校四年生の子供達を教えています。ある日、子供達に「夢」をテーマに作文を書かせました。驚いたことに、子供達の殆どが日本へ出稼ぎに行きたい、将来は日本に住みたい、とあったので何だかとてもがっかりしました。

 私の住んでいる弓場農場の創設者、弓場勇さんは、いつも「私の開拓者としての祈りは、親が開拓したこのブラジルに、子供達が誇りを持って生き抜いてくれることだ」と言っていました。また、「農業する事、百姓することは、神との共同作業であり、喜びである。」とも言っていました。
 私達の祖父母が、大変な苦労と努力を重ねて作り上げたアリアンサ村、アリアンサは1924年に開拓を始めて以来、都会化を拒み、農業を中心にやってきた小さな村です。今日まで、先輩達によって日本の特長を生かした文化が、大切に守られてきました。
 アリアンサには、よく日本からのお客様が訪れますが、その方達から、「今まで考えてもいなかった、日本の文化というものを改めて深く考えさせられた。」という言葉を聞きます。
 先日、アリアンサでは、JICA派遣の森本先生がいらして、日本語の大切さについての講演会が開かれました。森本先生のお話によると、日本人は大変物事に順応しやすい特徴を持っており、現在日系人の多くは、文化も心もブラジルと全く同化してしまっていると言うことです。
 第二次世界大戦の敗戦までの何千年もの間、その文化を他国に奪われた経験のない日本は、ドイツ人やユダヤ人のように、独自の文化を大切にするという意識は薄いようです。
 ブラジルでも、日本の文化や日本の心を育てる要である日本語を、多くの日系人は必要のないものとして考えているのではないのでしょうか。
 私は、ブラジルに生まれ育った日系人として、日本人が育んできた文化を守っていくことは、とても大切なことだと思います。ブラジルには「人は井戸が枯れてから初めて水の大切さを知る」ということわざがありますが全くその通りだと思いました。
 私達、田舎で生まれ育ったものには、都会の華やかさや、進んだ技術による便利な生活が、とても魅力的に感じられるものなのです。ともすれば、身近にある自然の美しさや素晴らしさ、それを守っていく大切さに気づかない場合が多いのです。幸い、私は都会に魅力を感じません。ですから、将来もたくさんの自然と、暖かい人達に囲まれたアリアンサ村で生活していきたいと思っています。

 今、私が心に強く願っている夢は、高校卒業後、医科大学に進み、医者としてアリアンサへ帰ってきて小さな病院を開くことです。医者になることも病院を開くことも、決して生やさしいことではないと分かっていますが、夢を大きく持って、少しでも私達のアリアンサ村の役に立ちたいと思っています。
 アリアンサは素晴らしいところです。きっといつか、出ていった皆もアリアンサの素晴らしさに気づき、帰ってきてくれることを祈り、わたしは頑張ります。
 皆さんも、機会があれば是非一度アリアンサを訪れてみて下さい。そして、その時小さな病院をみつけたら、そこに、私がいるかも知れないことを、皆さんも私と共に願っていてください。

DOT第一アリアンサ日本語学校作文


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