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木村 快
まず移住地というものについて説明しよう。一九一〇年代から、日本に帰れない出稼ぎ移住者たちによってつくられた集団地は無数にある。十家族内外の集団地は一般に「耕地」と呼ばれている。数十家族以上の単位になると「植民地」という名称が使われたようだ。「移住地」という名称は一九二四年に開設されたアリアンサ移住地がはじめてで、それ以後は一九二九年以降に開設された国策移住地も「移住地」を使っている。言葉も文化も異なるブラジルで自然発生的に生まれた集団地は、生産活動ばかりでなく、子どもの教育、医療など多くの問題を抱えていた。こうした移住者の問題を解決するために日本側で計画された大規模移住地として、三種類の移住地がある。(資料10を参照)
1 会社経営によるもの 最初の大規模移住地として一九一六(大正五)年からはじまったイグアッペ植民地がある。これは早くから日本政府に定着移住の必要を進言していた青柳郁太郎らが桂内閣のバックアップで、東京商工会議所を中心とした株主による東京シンジケート(現地法人名・ブラジル拓殖会社)が、サンパウロ州政府から土地の無償払い下げを受けて開設したものである。しかし、これは一九二〇年に国策会社・海外興業に吸収合併され、3の国策会社系となる。
2 組合方式によるもの 一九二四(大正一三)年に信濃海外協会が開設したアリアンサ移住地。これは民間の運動によって誕生した大規模移住地で、移住者の組合による運営だった。これにやがて鳥取海外協会、富山移植民協会が共同で参加する。
3 国策会社によるもの 一九二七(昭和二)年の海外移住組合法にもとずく国策移住地のバストス移住地、チエテ移住地、トレスバラス移住地(後にアサイ移住地と改名)がある。当初各県の分村移住地をつくるはずだったが、計画が破綻し、大規模移住地に転換したものである。これがもっとも大規模で海外移住組合連合会(現地法人名・有限責任ブラジル拓殖組合)の経営であった。
アリアンサ移住地は一九三八(昭和十三)年にブラジル拓殖組合(以下ブラ拓と略称)に経営権を移譲し、独立経営に終止符を打つが、ブラジル移住史の中でもほとんど唯一ともいえる「自立と協同」を志向した民間の運動によって生まれた移住地であり、全国四十二府県からの入植者による混植(こんしょく)移住地として広く注目を集めた移住地である。そして、アリアンサ移住地の実現は、それまで出稼ぎ中心だったブラジル移住を定着移住へと大きく転換させるきっかけになったと言われている。
「長野県の歴史」ではアリアンサ移住地をブラジル信濃村としているが、アリアンサ移住地には一九二四(大正十三)年に信濃海外協会が開設した第一アリアンサ移住地、一九二六年に信濃海外協会と鳥取海外協会が共同開設した第二アリアンサ移住地、同年に熊本海外協会が開設したビラ・ノーバ(新しい村)移住地、一九二七年に信濃海外協会と富山移植民協会が共同開設した第三アリアンサ移住地の四移住地がある。信濃海外協会は第一、第二、第三アリアンサ移住地のすべてにかかわっているが、第二、第三の共同開設とは境界線を引かずに、両協会であつかった入植者を順次入植させるということである。こうした区別なしの入植を混植と呼んでいる。
一九三三(昭和八)年五月の信濃海外協会発行の「ありあんさ移住地渡航者名」によると、信濃海外協会扱いの全入植者数は全国四十二府県からの入植者四〇八家族で、そのうち長野県からの入植者は一二三家族、全体の三〇%である。鳥取、富山はそれぞれの協会扱いなので、昭和八年時点のアリアンサは四三府県からの入植者で構成されている。これは信濃海外協会が当初から全国に入植を呼びかけていたためである。昭和二年までのデータを別に書き出したのは、信濃の第一アリアンサしかなかった段階での入植者を見るためで、これによると全入植者数は一三三家族で、そのうち長野県からの入植者は二六家族、全体の一九・五%にあたる。
アリアンサは組合運営であるから、その中核になる自治会(ありあんさ会)を発足させることになるが、まず一九二七(昭和二)年十月に自治会創立委員会がつくられ、責任者には移住者全体から推されて兵庫県西宮市出身の弓場為之助(ゆば・ためのすけ)が就任している。そして十ヶ月の準備期間をおいて翌年八月、公選によって、会長に瀬下登(せじも・のぼる)、副会長に石戸義一(いしど・ぎいち)が選ばれている。瀬下は長野県佐久郡の出身ではあるが、長野県から送り込まれた人物ではなく、アメリカからの再移住者である。石戸は岡山県久米村の出身である。
この時点ではまだ入植者の出身県は三十五府県だが、運営役員の選出にあたっては、この時代としては非常にめずらしい自由投票での選出を行っている。これは戦前の日本人移住地においては、おそらくアリアンサ移住地だけで見られた光景であろう。当時の日本は大正デモクラシーと呼ばれた時代だったこともあるが、それにしてもこのアリアンサでのできごとは文化史的にも特筆すべき事件である。
「長野県の歴史」はアリアンサを「建設の思想は同郷同国人による同郷同国と変わらぬ共同体作り(郷党的親睦思想)に核心がおかれていた」と書いているが、信濃海外協会大正十二年の総会での本間利雄総裁の移住地建設宣言を読んでもそれらしい文言は見あたらない。強いて言えば、次の部分だろうか。
「日本は南米に向って完全な移住地を作る事に於て各国に先鞭をつけねばならぬ。移住者をして安全に確実に定着させ何等の脅威を感ぜしめず、且彼地に於て本国に居っては望むべからざる程の地主たらしめ、本国に居ると同様の幸福を甘受せしめねばならぬ、それに付従来の移住態度を根本的に改変する必要がある。」
信濃海外協会は長野県知事を総裁に仰ぐことになっており、このとき就任間もない本間利雄がこの宣言演説をしている。当時の県知事の演説であるから海外列強におくれをとるなという民族主義的な発言は随所に出てくるが、全体の文意としては、ただ送り出すだけの移住態度を改め、移住後の教育面、医療面にもおよぶ移住者保護を重視すべきだという、当時としては画期的なものである。これは移民会社を通じてただ送り出すだけの無責任な政府の移住政策に対する批判でもあった。
実は、この移住地建設宣言文は輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)が作成した移住地建設計画書を下地にしたものである。輪湖は後に述べるように、ブラジルで活躍したジャーナリストであり、一九二〇年初頭から一年間日本に滞在し、偶然な成り行きから信濃海外協会の設立事務を担当することになったのである。このとき同時に発表された土地配分の計画を見てみよう。
一、資金。弐拾万円を一口一千円宛とし本県に関係を有する有志の拠出に待つ
一、土地約一万町歩とし、ブラジル国サンポーロ州内にて、珈琲栽培可能地を購入す
一、土地利用
イ、五千町歩 出資者に分配提供
ロ、一千町歩 海外協会直営地
ハ、一千町歩 長野県よりの新渡航者に売却
ニ、一千町歩 在伯長野県人に売却
ホ、二千町歩 土地組合に売却
まず出資者へ分配される五千町歩は資金提供者に対する担保のようなもので、実際に分譲する土地は五千町歩を想定している。そのうち二千町歩を長野県からの渡航者とブラジル在住の長野県出身者に売却することになっている。一戸あたり二十四町歩の配分(ブラジルの単位で一〇アルケール)で九十家族から百家族を想定している。
(ホ)の土地組合に売却とあるのが県外者への売却である。長野県人は信濃海外協会の信濃土地組合員として扱い、県外者は別に南米土地組合をつくり、その組合に加入して土地の分譲を受けるのである。直営地は事務所、倉庫、コーヒー精選所、試験農場などを設置する場所である。
実際の経過はこの計画とはかなり違ったものになるが、当初から長野県人と県外者とにそれぞれ五〇%ずつの売却を想定していたことがわかる。計画は出資対象者を長野県関係者におきながらも、入植の呼びかけは全国に向かって呼びかけたわけである。
この計画書は信濃海外協会が設立される以前に、永田稠(ながた・しげし)と輪湖俊午郎が全国を対象に呼びかけたときのものを基本にしており、これを信濃海外協会が引き継いだためである。資金募集では信濃用に多少手直ししてあるが、協同の移住地をつくるという基本の骨格はそのままである。
実際には一九二四(大正十三)年十月、信濃海外協会はほぼ計画通りの五、三二四ヘクタール(町歩とヘクタールはほぼ同じ)の土地を購入し、アリアンサ移住地(のちに第一アリアンサと改称)を開設している。長野県出身者への配分についての正確な記録はないが、一家族一〇アルケール(二四ヘクタール)が原則だから、資料3の入植者数二十六家族で計算するとざっと六二九ヘクタールで、計画案よりはるかに後退しているのがわかる。
それにしても、この時代にどうしてこのような発想が生まれ、どうして長野県がかかわるようになったのかを見て行きたい。
出稼ぎ移住者たちは移民会社によってドンドン送り込まれたが、現実には日本へ帰ることができず、土地を買って自営農になるか、小作農になるかしかなかった。文化が違うため、日本人は固まって暮らさざるをえず、何百という集団地が生まれている。
集団地名として、10人内外の集団は○○耕地といった具合に「耕地」を使ったようである。数十家族を越えると、「植民地」が使われていた。
「移住地」という呼称は1924年にアリアンサ移住地がはじめて使ったもので、これ以後は国策移住地のバストス、チエテ、トレスバラスも「移住地」を使うようになった。
移住地の人口については、昭和14年の統計によると、アリアンサは3,780人、国策移住地のバストスが12,537人、チエテが6,221人、トレス・バラスで4,028人という記録が残っている。
「移住」が公式の用語として使われるようになったのは戦後の1951年からである。