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アリアンサと信濃海外協会

木村 快

4 信濃海外協会と長野県

  海外協会と移住組合のちがい

 信濃海外協会について語る前に、海外協会と海外移住組合との違いをはっきりさせておきたい。この二つの組織はしばしば混同されがちだが、成立した時期も性格もまったく違う組織である。
 「海外協会」とは海外に移住者を多く送り出していた県で、海外思想の普及、移住者のバックアップなどを目的として生まれた非営利の民間団体である。最初に生まれたのは大正四年の広島県植民協会(後に広島県海外協会と改称)で、引きつづいて防長(山口)、熊本、大正七年に和歌山、大正八年に香川、大正九年に岡山で設立されている。大正十一年の信濃海外協会は七番目の設立だが、移住地建設を目的につくられた海外協会は信濃が初めてだった。
 「海外移住組合」とはアリアンサ移住地が建設された三年後の一九二七(昭和二)年、第五二帝国議会で成立した海外移住組合法にもとずいて各県に組織されたものである。海外移住組合は海外での土地購入資金や造成資金に国からの低利融資が受けられ、組合扱いの渡航者には渡航費が全額支給される。この法律は海外に各県の分村移住地を作ることを目的にしてつくられたもので、その中央機関である海外移住組合連合会は南満州鉄道株式会社(満鉄)や東洋拓殖株式会社(東拓)と同様の権限が与えられた。この海外移住組合連合会がブラジルに設立した組織が有限責任ブラジル拓殖組合(ブラ拓)であり、バストス移住地、チエテ移住地、トレスバーラス移住地などの大移住地を建設する。また、昭和十三年には日南産業株式会社を設立して東南アジアの資源開発や移住地の建設にも乗り出している。

  信濃海外協会の発端と今井五介

 輪湖はレジストロで永田と会った後の一九二一(大正一〇)年初頭、永田のすすめで単身帰国し、「自治と協同を目指した移住地」建設運動を起こそうと奔走する。彼の計算によれば二〇万円あれば五千ヘクタールの土地を取得し、二百戸の協同移住地ができるはずだった。

 この五千ヘクタール二百戸という規模は、新聞記者としてブラジル農業を見つづけ、レジストロ植民地の抱える問題をも集約した上での結論であった。それは自発的な協同の限界を意味していた。輪湖の作成した移住地建設計画書はその後信濃海外協会の計画書となり、さらに昭和二年の海外移住組合の基本計画書にもそのまま引き写されている。そして営農計画だけでなく、自立した生活を可能にするため協同組合による運営を考え、教育、医療までを含んだ移住地計画書を作成し、協力者を求めて歩いた。しかし、まだこうした物好きな移住地計画に投資しようとする人間は現れなかった。一年近く歩き回り、結局この仕事は時期尚早ということで、輪湖はいったん断念してブラジルへ帰ろうとする。

 このとき、永田は輪湖を手ぶらでブラジルへ帰すに忍びなく、せめて運動継続のため、方向を転じて長野に海外協会をつくってはどうかという話を持ちかける。この話は「ブラジルに於ける日本人発展史」に輪湖俊午郎自身が記述している。(資料6参照

今井五介  この海のものとも山のものともつかぬ移住地建設運動に対して、片倉製糸の今井五介がバックアップしたことはほぼ間違いない。今井はこの時期、兄の片倉兼太郎亡き後の片倉を取り仕切る大黒柱であり、ちょうど東京に資本金五千万円の株式会社片倉製糸紡績を設立したばかりだった。今井自身多額納税者として貴族院議員に推挙され、長野の片倉組から日本の片倉製糸へと大きく変貌を遂げつつあった時期である。

 片倉製糸は海外からの原料繭を調達するため、ブラジルでの繭生産を考えていたのかもしれない。今井五介は一八九三(明治二六)年に三井物産と共同で中国の上海に製糸工場をつくり、同時に原料繭を輸入している。おそらく日本の企業としては資源輸入の先駆けであろう。日本人移住者に繭を生産させ、安定した輸入を確保しようと考えても不思議はない。今井は大正八年にブラジルの土地事情視察のため、信濃教育会の移民促進派であった同郷の今井新重をブラジルへ派遣するつもりだった。ところがこの今井新重も中村国穂と同じスペイン風邪で急逝している。今井はやむなくブラジル事情をつかむ時期を待っていたはずである。

 こうした経緯から考えると、永田が全国から長野県へと方向転換し、まず相談を持ちかけた相手は今井五介であろう。今井はすでにニューヨーク支店の開設を構想している時期でもあり、南米への情報網を持つことは願ってもないことだったはずである。信濃海外協会の組織を永田にすすめたのはむしろ今井であったかもしれない。資料6で輪湖が語っているように永田が急遽岡田知事を追って諏訪へ飛んだということは、岡田が新任の挨拶に今井を訪問していたのではないかと思われる。

 今井はその後も永田や輪湖が窮地に立つと救いの手をさしのべているが、信濃海外協会は必ずしも今井の意向でつくられたというわけでもない。今井は当然国際的視野を持った資本家としての狙いもあっただろうが、永田や輪湖に対して人間的な好意を持っていたようだ。今井は片倉家の三男に生まれながら、少年時代、今井家へ養子に出され、家族関係では苦労している。もともと学問好きで、実際に松本で大同義塾の塾長をつとめているし、さらに勉学のため独力でアメリカへ渡っている。片倉の仕事を継ぐようになったのは片倉組が経営を拡大し、兄兼太郎の要請によってアメリカから帰国した一八八五(明治十八)年、三十二才のときからである。永田や輪湖に手をさしのべたのは、同じくアメリカで辛酸をなめ、青春時代を過ごした人間としての共感を持っていたからではないだろうか。

 こうして一九二一(大正十)年の十二月、信濃海外協会の設立準備会が開かれるが、それは長野ではなく東京日比谷の陶々亭で開かれている。顔を連ねたのは国勢院総裁の小川平吉、長野県知事岡田忠雄、長野県会議長の笠原忠造、信濃教育会の佐藤寅太郎、貴族院議員今井五介、それに準備側の永田稠、宮下拓磨である。知事以下、県会議長、信濃教育会長がわざわざ東京へ出てきての会合であったことをみても、長野側が主体ではなかったことを物語っている。会の進行および趣旨の説明には輪湖俊午郎があたっている。つまり、事実上は輪湖の移住地建設案を聞く会だったわけである。

 しかし、この時点では永田も輪湖も移住地建設が実現するとは考えていない。移住地建設をせめて運動として継続するために、長野県に持ち込んでみようということであった。そこで岡田県知事を初代総裁に据え、申し送りで時の県知事が総裁を兼ねる形にするわけだが、岡田がそれを納得したのはやはり今井五介の意向があったからだろう。小川平吉、笠原忠造、佐藤寅太郎にしても同じで、今井の顔を立ててひとまず輪湖の移住地建設案に耳を傾けてみたということである。

 信濃海外協会はあくまでも永田稠の仕事であり、実際の業務は永田が会長を勤める日本力行会が担当していた。翌一九二二(大正一一)年一月、信濃海外協会は長野市で正式に発足することになる。事務所は長野県庁の一室を借り、輪湖はここで移住地建設案をまとめ、岡田総裁に提出して二月末にブラジルへ帰った。

  アリアンサ移住地開設の実態

 いろいろな文献で見かけるアリアンサの紹介は必ずといっていいほど一九二三(大正十二)年に信濃海外協会総裁として本間利雄長野県知事が移住地建設を宣言したことからはじまったことになっている。このため、アリアンサは長野県がつくった移住地と誤解されることが多い。このとき、本間は長野県に赴任してきたばかりだった。永田が苦心して担ぎ出した初代総裁の岡田忠雄は移住地建設案を一年あまり放置したまま、その年の春熊本県知事に転任している。長野県側が必ずしも海外協会に積極的でなかったことがわかる。その間、宣伝活動はすべて日本力行会の資金が使われた。

 代わって山梨県知事から転任してきたのが本間利雄である。永田の回想によれば、本間も最初はあまり乗り気ではなかったという。それでも計画書に目を通し、着任早々であるにもかかわらず、その年の総会で総裁として号令をかけてくれた。本間にその気がなければアリアンサ建設はまたそのまま机の引き出しの中に眠っていただろう。その点で本間の功績は大きい。演説の草稿は輪湖の作成した移住地建設趣意書および計画書にもとづいたものであった。

 とにかく移住地建設宣言を出してもらったので、信濃海外協会は資金集めに歩きはじめる。実際には永田と片倉の社員であった宮下拓磨の二人が足を棒にして県下の有力者を訪ねて歩いたわけである。その間に、輪湖はサンパウロ州のバウルー領事館から日本人移住者実態調査の仕事を取り付け、ノロエステ線と呼ばれる日本人移住者密集地帯を調査をかねて訪ね歩き、候補地を物色して回る。そして、翌一九二四年、現在のアリアンサにねらいを定める。

 当時、サンパウロ州は土地解放政策をとっており、一種の土地ブームが起こりつつあった。すでに外国資本も移住地建設に本腰を入れはじめており、タイミングを逃すと、二度と優良候補地を購入することができないと思われた。しかし、長野ではさっぱり金が集まらない。一年近く歩いた一九二四年三月時点で、寄付に応じたのはわずか七人、集まった金はたったの一四、八〇〇円である。

 輪湖は、土地代理人のロドルフォ・ミランダ上院議員と折衝し、三年年賦での購入を認めさせる。三年年賦ならとりあえず邦貨で五万円あればいい。土地を買ってしまえば、入植者に分譲しながら資金を回転させることもできるし、移住地が現実のものになれば資金も集まるはずだと踏んだわけである。そこでまた今井の出番となるわけだが、今井は弟の片倉兼太郎(二代目)社長を通じて五万円を寄付する。表向きは「県民の仕事に片倉が金を出したらかえってやりにくくなるだろうから、二〇万円の四分の一を寄付する」ということだが、この段階ではとにかく五万円なければすべてが水の泡になってしまうという瀬戸際であった。のるかそるかで永田は土地購入のためブラジルへ渡るが、船がサンフランシスコに着いたとき、現地の新聞で本間利雄が山梨県知事へ転任したことを知り、あわてる。なんと言っても建設宣言をした総裁がいなくなったわけである。

 それでもなんとか二、二〇〇アルケール(四、八八〇町歩)の土地購入契約を済ませ、移住地開設の準備にかかるが、原始林を拓き二〇〇戸以上の入植者を迎える事業だというのに、スタッフはレジストロで永田・輪湖と話し合った北原地価造夫妻と、レジストロから連れてきた大工の座光寺与一夫妻、それに青年一人だけである。しかもその青年は一週間もたたぬうちに逃げ出してしまい、年明けの一月までは北原、座光寺の両夫妻だけで原始林を拓いたという。年が明けると、輪湖はサンパウロとレジストロから青年二人と、十九歳の少年伊藤忠雄を連れてくるが、これはまったく個人レベルの仕事である。資金もなく、イグアッペ植民地には中村国穂が期待をかけた最大の長野県人集団が存在しながら、輪湖は海外興業と事を起こすのを嫌って長野人の支援を受けようとはしなかった。

 開発業務の一切を輪湖と北原地価造にゆだね、永田は資金調達のため急ぎ帰国する。ところが長野へ戻ってみると専任幹事の藤森克が辞任しており、机や書類は県庁の片隅に積みあげられていたという。資金の募集業務も放置されたままであった。つまり、長野にはだれも信濃海外協会のことを気にする人間はいなかったということである。信濃海外協会の設立には信濃教育会の佐藤寅太郎も顔を連ねているし、藤森は信濃教育会から送り出された幹事である。もし信濃教育会に積極的な意志があれば、そんな事態にはならなかっただろう。これが資料2で述べられている郷党的親睦思想に核心を置いて本格的建設にかかったというアリアンサ建設の実際の姿である。

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