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木村 快
アリアンサは長野県を窓口として運動を展開して実現した移住地だが、すでに見てきたように長野県は必ずしも積極的だったわけではない。これは永田も輪湖も長野在住者でなかったことと、その視点が必ずしも長野県本位でなかったためかもしれない。永田も輪湖も早くから郷里を離れ、ともにアメリカへ渡り、永田は帰国して東京で日本力行会の業務に当たるが、輪湖はブラジル在住者である。いわゆる郷党的親睦思想を軸にした運動をすすめる適任者だったとは言えない。おそらくこうした人物を中心にした運動であったことが、長野県としては今ひとつ乗り切れないものがあったのだろう。二〇万円の資金は集まらず、永田と輪湖は土地代を除くとわずか二万円の資金で建設に取りかからねばならなかった。伐採をはじめても労働者に支払う賃金がなく、輪湖はレジストロからつれてきた伊藤少年の兄に借金を頼みに行っている。
それでも永田は信濃教育会から西沢太一郎という人材を引っ張り出す。西沢も信濃教育会諏訪支部の今井(地区)部長をしていたというから、これも今井五介の口利きによるものだろう。今井地区は今井五助が養子に出された村で、現在は岡谷市の一部になっている。西沢はその後信濃海外協会の実質的なリーダーとなり、アリアンサの窮状を打開する上でも大きな役割を果たしている。この西沢の時代になってはじめて信濃海外協会は長野県のものになったと言っていい。
今度は永田と西沢の二人で資金集めに歩いている。永田は、出資者には出資金額に見合った土地を提供し、農地経営を代行させれば利益が上がると宣伝して歩く。これは日本力行会を背負う永田にとってはきわめて危険な賭けであったが、大正デモクラシーを背景にした世論を読みながら、「自治と協同の移住地」を呼びかけることは必ず全国的な共感を引きだせるはずだという確信があったからだろう。
結果は大成功であった。ふたを開けてみると、全国から希望者が殺到し、一年後には満植になる。当然、政府もこれに注目する。このアリアンサの成功によってあらためてブラジルに定住することの意味が論議されるようになり、出稼ぎ移住から定着移住へと移住の歴史を大きく変えることになる。
アリアンサが日本で話題になったのは、やはり大正デモクラシーという時代背景がある。さらに、一九二三(大正十二)年の関東大震災によって日本経済がダメージを受けたことも考慮に入れる必要がある。首都壊滅は単なる経済的問題にとどまらず、これから先どうなるのかという人心の動揺を引き起こした。これを機に日本の右翼化が急速に進み、自由主義的な諸運動への弾圧も強められていく。
こうした時代の転換を背景にして、出稼ぎ移住ではなく新世界に協同の大地を築こうという呼びかけは、当時の知識階級に新鮮な感動を与えたと考えられる。アリアンサ移住者に知識階級の子弟が多かったことはこうした背景を抜きには考えられない。
こうなると、資金の調達も進みはじめる。だが、それでも当初の目的であった二〇万円には遠く及ばず、昭和四年三月までの六年間で出資に応じた人数は一〇六人、集めた金は一五七、〇〇〇円である。片倉の五万円を除けば、一〇五人で一〇七、〇〇〇円ということになる。目標額の半分である。
アリアンサがブームになると鳥取県知事の白上祐吉はすぐさま鳥取海外協会を組織させ、信濃と共同で第二アリアンサ移住地をつくらせる。さらにその翌年富山県知事に転任すると、ここでも富山移民協会に信濃と共同で第三アリアンサ移住地をつくらせる。この点では長野と違って、県主導ですすめられている。
共同でということは移住地の造成および受け入れ準備のすべてを信濃側に依存せざるをえなかったからである。これにおくれじと、熊本海外協会もビラ・ノーバ(新しい村の意)移住地をつくる。こうしてたちまちサンパウロ州奥地の原始林に大アリアンサ圏が誕生した。
しかし、ここでは詳述できないが、自立した運動を形成することなく、信濃に依存した移住地建設はその後大きな問題を抱えることになる。永田と白上の間では共同の入植地は混植にするという合意が取りつけられていたが、鳥取からの入植者たちは鳥取の分村を建設するつもりでやってきたため、以後なにかと信濃との間に紛糾を重ねることになる。また、熊本のビラ・ノーバ移住地も開設早々移住者との紛糾が続発し、数年後には海外移住組合連合会に経営権を移譲することになる。
アリアンサの分譲価格は一区画あたり二十四ヘクタールで四五〇円だった。アリアンサへの移住者には渡航費の助成はなかったから、一人二五〇円の渡航費も必要だった。当時の入植呼びかけによると、三人家族で移住する場合、約二、五〇〇円必要だとある。当時の教員の初任給が五〇円前後であるから、大正時代にこれだけの資金を持って移住できる人は中産階級といっていいだろう。したがって実際の農業経験者は少なく、元の職業は教員、技術者、会社員といった人がかなりいる。中には医者、歌人、俳人、学者といった人々まで含まれており、周囲の移住者からは銀ブラ移民とからかわれていた。
銀ブラとは東京の銀座をブラブラ歩くことを言うのだが、金は持っていても百姓仕事のできない連中というやっかみの表現であった。事実、生産は上がらず、金を使い果たして離農する人々も少なくなかった。反面、文化活動やスポーツは盛んで、ブラジル日系社会を代表する文化人にはアリアンサの出身者が多い。ブラジルでは今でも短歌・俳句が盛んだが、短詩文学の中心的な指導者として活躍した歌人岩波菊二(いわなみ・きくじ、長野県出身)や俳人佐藤念腹(さとう・ねんぷく、新潟県出身)、木村圭石(きむら・けいせき、新潟県出身)もアリアンサの入植者である。岩波も佐藤もアリアンサ初期の自治会では役員として活躍している。
アリアンサ開設早々に編成されたアリアンサ野球チームは一九二七年には大都会サンパウロ市の強豪チームを押さえ、全ブラジル野球大会で優勝、以後三連続制覇を成し遂げている。アリアンサ野球チームを率いた弓場勇(ゆば・いさむ、兵庫県出身)は剛速球投手としてならした伝説的な人物であり、弓場の活躍は全ブラジルの移住地に野球を普及させ、やがて全伯野球連盟を発足させることになる。
アリアンサとはポルトガル語で盟約を意味する語である。移住地名を決めるとき、永田はたしかに信濃植民地にしたいと考えていたようだ。しかし、輪湖はこれに真っ向から反対、入植者も日本全国から集めようとしているのであり、入植者にもまたブラジル人にも納得できる名称にすべきだと説得している。両者の間で激論になったということは、ちょうどその場に行き会わせたブラジル聖公会の伊藤八十二牧師が聖公会の機関紙に書き残している。
結局、一致協力の意味でアリアンサという名称に落ち着き、植民地ではなく移住地という新しい用語を使うことにした。レジストロの出会い以来、二人の共通した結論は、国策任せの移住は棄民につながるという危機感と、移住者自身の自立した自治と協同なくしては真の意味の定着は不可能だと考えていたことからすると、アリアンサという名称が二人の理想を表現した言葉であったことは間違いない。
だが、これを当時の日本人に納得させるのは至難の業だった。このため、移住案内や入植規定には団結とか助け合いとかいった様々な表現を使っている。当時の出稼ぎ移住全盛時代に定着移住の突破口を開くには、まず中産階級に呼びかけて協同の村の実現をはかるべきだとしたことは適切な方策であったと言える。従来の産業史的視点からすると、インテリの独りよがりに過ぎないと見られがちだが、アリアンサの建設は紆余曲折を重ねながらも、その実現はブラジル移住のあり方を、出稼ぎ移住から定着移住へと大きく転換させるきっかけとなった。アリアンサは運動経過からしても、もともと長野県の分村にはできない事情があったのである。
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