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アリアンサと信濃海外協会

木村 快

6 抹殺された国策移住資料

  海外移住組合連合会の成立

 資料2の「長野県の歴史」には「ブラジル信濃村方式による一県一村構想」という表現があるが、アリアンサが建設された時期にはまだ一県一村構想といったような考え方はない。この言葉が生まれたのは一九二七(昭和二)年三月の第五二帝国議会で海外移住組合法が成立し、各県に移住組合が組織されてから以降のことである。ブラジル移住が完全な国策移住になったのはこの法律によってであり、移住組合として認可されると土地購入資金および造成資金は政府から低利で融資され、学校や医療施設に対する補助金が支給される。移住組合扱いの渡航者には船賃も全額政府から支給される。事実、この翌年からブラジル移住者は急増する。統計によると一九〇八(明治四一)年から一九四一(昭和一六)年までの三十三年間に一七九、三二一人の人がブラジルへ渡航しているが、その七割にあたる一二一、一五一人は移住法公布後の渡航者である。

 この海外移住組合法は必ずしもブラジルだけを対象にしたものではなく、むしろ本命は満蒙だったと考えられる。満蒙移住を想定した移住組合構想を、アリアンサの成功に便乗して一挙に法律化したように見える。そして、とりあえずブラジルからはじめてみようということだったのではないか。この法律は当初から各県の分村建設を目的にしたものだが、各県知事を会長とし、資本金二〇万円で五〇〇〇町歩の土地を取得し、二〇〇戸単位の移住地をつくるという計画の骨子はすべてアリアンサ建設計画のコピーである。ただ、アリアンサ建設では六年かかっても一五八、〇〇〇円の資金しか集まらなかったが、このときの各県海外移住組合は即座に二〇万円の資金を集めたようだ。

 法律が公布されると直ちに各県に移住組合が組織され、その中央機関として海外移住組合連合会が設立された。そして、そして最初の総会で、毎年二〇〇戸単位の分村移住地を八県分ずつ建設する方針を決定している。しかも、一年後に各県から移住主任を送り込むことまで決めている。

 このとき、理事長には永くブラジル大使をつとめた田付七太、専務理事には内務省出身で長野県知事もつとめた梅谷光貞が就任し、顧問には青柳郁太郎のような移住地建設の専門家がつき、永田も嘱託になっている。それなのにどうしてこんな非現実的な方針が決定されたのかナゾである。たぶん、背後に大きな政治的圧力があったのだろう。つまり、満蒙移住は秒読み段階にあり、とりあえずブラジル移住が試験的踏み台にされたようだ。そして、梅谷専務は即刻一七〇万円の土地購入資金を持ってブラジルへ渡ったと言われている。

  一県一村構想の破綻

 ブラジルは日本が軍事力で支配権を確立しつつあった満蒙とは根本的に事情が違う。ヨーロッパ人が主導権を持つ中南米の大国である。しかも、一九二三(大正十二)年には劣等民族である日本人の入国を禁止すべきだといったレイス移民法案がブラジル下院に提案され、物議をかもしている時代である。サンパウロ総領事の赤松祐之はこの無謀な一県一村構想に猛反発し、梅谷に次の四点を突きつけて、納得のいく説明がない限り移住組合連合会への協力はできないと突っぱねている。

 1:日本の法律による移住組合などはブラジの法律では認められない。
 2:各県組合にブラジルで移住地経営ができるような人材がいるとは思えない。
 3:広大な土地を購入して各県組合に五千町歩宛分割するるというが、移住者は渡伯順に混植させるべきである。
 4:日本から直接移住してきた集団ではブラジルの習慣が理解できず、問題を起しやすい。いったん海外興業株式会社あつかいのコーヒー農園移民とし働き、契約年限終了後に入植させるべきだ。

 当時の移住業務は内務省社会局の管轄であった。何の相談もなく勝手に分村移住地をつくるなど、総領事館としては容認するわけにはいかなかった。たしかに、ブラジルをまるで自国の領土であるかのようにふるまう態度は、どう考えても満蒙政策に狂奔する内務省の独走の結果としか考えられない。

 ブラジルに着いた梅谷は総領事館の協力が受けられず、本国では移住組合がどんどん準備を進め、各県の移住主任を赴任させたいと催促の電報を送ってくる。進退きわまった梅谷は急遽アリアンサ移住地の理事であった輪湖俊午郎を企画スタッフに招き、プランを全面的に再検討しなければならなかった。この時期、アリアンサを成功させた輪湖は内外共に移住地建設のエキスパートとして認められていた。

 輪湖は、アリアンサの経験からしても一県一村移住地ということは土地の取得も困難であり、それに土地を取得しても、事情のわからない人間が文化の異なるブラジルで日本流の移住地経営を押し通すことは不可能であること、また、移住行政をすすめるにはブラジルの法律にもとずいた現地組織を設立すべきであることを提言する。こうして成立したのが有限責任ブラジル拓殖組合、通称ブラ拓である。ただ、4の入植者はコーヒー農園で経験を積ませるべきだとする意見に対しては、新しい移住集団を育成するには直来移住者の方が適切だと妥協しなかった。この点は総領事館も了承したようだ。

 結局、梅谷は輪湖の進言に従って独断で一県一村構想を断念し、全県混植の大移住地方式に転換する。そして輪湖を現地理事として参謀に迎え、大車輪で移住候補地の調査を進め、バストス移住地、チエテ移住地、トレス・バラス移住地の土地を選定し購入する。だが、この一県一村構想を断念することは海外移住組合法本来の目的を骨抜きにしてしまうことであり、内務省および各県移住組合から猛反発を受ける。その結果、一九三一(昭和六)年の連合会総会で梅谷光貞は失脚することになり、同時に輪湖のアリアンサ経営も苦境に追い込まれることになる。

 この一県一村構想破綻の経過はなぜか、連合会・ブラ拓の記録から抹消されている。そのため、ブラジル側の文献でも一県一村構想の顛末に触れたものはなく、海外移住組合法の成立経過、ブラ拓初期の実態は全くのブラックボックスになっている。この直後の昭和四年、移住行政は新設された拓務省に移管されており、拓務省は太平洋戦争中に大東亜省に併合され、戦後解体されている。戦後の移住再開からは外務省の管轄になる。資料はそのどの段階かで廃棄されたのだろう。ブラ拓銀行部を引き継いだ南米銀行が一九九七年に刊行した「南米銀行五十年史」でも、この経過についてはいっさい触れていない。この海外移住組合法は一九五〇(昭和二五)年に外務省によって廃棄されている。

 この一県一村構想の破綻についての記録は唯一、輪湖俊午郎が日本滞在中の一九四一年、自費出版した自伝「流転の跡」の巻末に、梅谷光貞を追悼する形で内務省と外務省の対立経過を書き残している。このとき、輪湖は外務省の一室で「ブラジルに於ける日本人発展史」の編纂委員として移住史の執筆をしているのだが、公的な編集委員会では日本帝国の恥部を記述することができなかったらしい。

 「流転の跡」は自伝というスタイルをとっているが、少年期やアメリカ時代のことをほとんど書いていない。もっぱら移住問題にかかわったいきさつが中心で、大正七年のレジストロへの移住者宣伝募集のために帰国した段階で終わっている。付録の梅谷追悼文とあわせて読んでみると、輪湖は「日本人発展史」に書けなかったことを書き残すために「流転の跡」を出版したのではないかと思われる。

 長野県が信濃村の成功に自信を持って満蒙移住でも一県一村構想を押し抜いたというのはまったく歴史的事実とは違う。はっきり言って、満蒙移住は侵略政策の一環として行われたものであり、ブラジル移住と同列線上で扱うのは無理がある。むしろ考えられるとしたら、ブラジルでは手痛い失敗をしたが、満蒙では軍事力を背景にして何が何でもやらねばならぬという転換だろう。

  国策に見捨てられたアリアンサ

 信濃のアリアンサ建設は一見順調のように見えたが、鳥取と共同で開設した第二アリアンサ、富山と共同で開設した第三アリアンサの開設並びに受け入れ準備をすべて信濃で引き受けたため、資金は底をついていた。鳥取や富山は白上県知事の意向で急遽はじまったこともあり、それぞれ十万円程度の資金しか集めていない。このため、道路、産業施設、学校といったインフラ整備が困難だった。永田は第一アリアンサ開設の段階で、日本政府に産業組合法の適用を働きかけている。しかし、主権の及ばない海外への適用は困難だとしりぞけられ、単独の海外移住組合法設立建議案を政友会の津崎尚武を通して議会へ提出している。

 海外移住組合法はこうしたアリアンサ側からの建議案提出から始まるのだが、外務省と内務省の政治的思惑が交錯するうちに、アリアンサ救済とはまったく無縁の、新しい国策移住地をつくるためのものにすり替えられていた。しかも、既設の海外協会への適用は認められない法律になっていた。結局永田らの海外移住組合法案設立の運動は国策に利用され、しかもアリアンサは完全に無視されてしまったのである。

 アリアンサ経営は困窮をきわめていた。信濃、鳥取、富山、熊本の各海外協会は急遽母県に移住組合を設立し、海外協会から移住組合に移住地経営権を肩代わりする形で切り抜けようとするが、資本金は信濃が十七万円、鳥取、富山、熊本はそれぞれ十万円程度しかなく、移住組合法の規定する資本金二〇万円には遠くおよばず、移住地経営にさまざまな不安と混乱を引き起こすことになる。

 現状を見かねた連合会専務の梅谷光貞は、四移住地が統一した経営体となって切り抜けることを示唆する。そこで一九三〇年初頭、輪湖が急遽帰国して奔走する。いったんは連合会の総会で統一案は容認されるのだが、肝心の海外移住組合同士の話し合いがつかず、そこへもってきて不運な事件が発生する。浜口首相遭難事件である。浜口は東京駅頭で右翼の襲撃を受け瀕死の重傷を負う。代わって臨時首相代理の座に着いたのが外務大臣の幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)である。

 幣原は三菱財閥の大番頭と言われた男で、海外移住組合連合会の理事長に川崎造船社長の平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)を指名し、一九三一(昭和六)年二月の総会で田付・梅谷体制は崩壊する。平生は海外興業出身で永くペルーで移植民事業を手がけていた宮坂国人(みやさか・くにと)を専務理事に据える。

 昭和六年というと満州事変の勃発した年として知られるが、満州事変は日本が満州国をつくりあげるために意図的に引き起こした軍事行動である。翌年の満州国建国はすでに決まっていたし、あわせて満蒙移住の準備も着々と進められていた。そして翌々年の昭和八年には日本は国際連盟から脱退することになる。平生は戦時体制に向かう財界を率いる立場にあり、連合会を国策にしたがった路線へ転換させる。その結果、ブラジルでは綿花、工業ダイアモンドなどの戦略物資調達に主眼を置き、移住地開発を中止して産業開発路線をとるようになる。当然、移住地育成を主張するアリアンサと相容れるわけはなかった。アリアンサ統一案も、輪湖が梅谷の参謀として一県一村構想を拒否した元凶とされていたから、新執行部によって一蹴されてしまう。アリアンサは完全に国策から見放されたのである。

 輪湖はアリアンサに戻り、日本から永田も駆けつけて、アリアンサの建て直しと四移住地の連携に奔走する。一方、ブラジルに乗り込んだ連合会の宮坂新専務は、逆に信濃、熊本、鳥取、富山の四移住組合(この時点では海外協会から新しく組織された移住組合に肩代わりされている)に各個撃破で経営権の移譲を迫る。そして、ひっぱくした経済事情から、ついに熊本、鳥取、富山は連合会(ブラ拓)傘下に併合されてしまう。ただ信濃だけがこれを拒否し、孤立しながらも独自の経営をつづけることになる。

 どうやら信濃アリアンサの体制が整った一九三〇(昭和一〇)年二月、わが道を往く見通しのついた段階で、輪湖は移住地理事を辞してアリアンサを去る。以後、どんなにすすめられても移住関係の仕事にかかわることはなかった。

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