Home |
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料 |
「長野県の歴史」(山川出版社・1997年)および
「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店・2000年)
アリアンサ移住地の記述についての疑問
木村 快
アリアンサ移住地は信濃海外協会が開設したにもかかわらず「信濃(しなの)」の名称を使わなかった。
排他的な郷党的親睦思想をうたう長野県人の村が、なぜ、信濃村としないでアリアンサというブラジル語の名称をつけたのか。
実はこの移住地建設は日本全国に呼びかけられて誕生した移住地だからである。
アリアンサとは縁組みとか同盟、連合を意味するブラジル語だが、創設者の永田稠は一致、協力、和親の意味を込めたと言い、命名者は輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)であることを書き残している。
アリアンサ移住地はその理念を名称としてかかげた運動によって実現した移住史上はじめての日本人移住地である。
しかもその入植形態は混植と呼ばれる到着順の地所割り当て制度がとられ、長野県人だけが集まって入植することはできなかった。
資料2では「ブラジル信濃村建設方式による一県一村構想の長野県案を組みこませた満州信濃村建設計画」という表現を使い、アリアンサが一県一村構想の元祖であるかのような書き方をしているが、果たしてアリアンサが長野県人の村であったかどうか、資料3を見てほしい。これは一九二六(大正十五)年末時点、及び一九二七(昭和二)年末時点のアリアンサ入植者名簿から作成した出身県別一覧表である。
一九二六(大正一五)年末の時点で、すでに三十二府道県(当時、東京都は東京府)から八六家族の入植者が集まっており、長野県からの入植者は八六家族中十五家族で一九%であり、翌昭和二年末で一三六家族中二七家族で二〇%になる。もちろん、長野県からの入植者は最大勢力でる。だが、長野県の分村と規定できるだろうか。長野県出身者が中心になって開設した移住地であり、長野県出身者が比較的多いという点でアリアンサは長野県人の村と言われることはあった。
だが、重要な点は、「信濃村」が形容詞として使われているのではなく、両書では満州移住における分村移住政策の原型として「信濃村」が使われていることである。
このような構成の移住地が果たして郷党的親睦思想で運営できるものだろうか。事態は逆である。
当時の日本人はたしかに郷党意識が強かったから、何一つ決めるにも紛糾し、調和をはかるのに苦労している。
そのため、多数派と目される長野県入植者は大変気を遣い、むしろ調停役に回っている。
ただし、初期の長野県入植者は日本力行会のキリスト教徒が中心であった。
彼らはアリアンサの理念に共鳴し、無償で移住地建設に従事している。
運営の方式は自治会をベースにした組合方式がとられた。
戦後の日本なら自治会という名称は形式化してしまって珍しくもないが、大正末期に自治会運営を採用すると言うことは画期的なことである。
自治会設立準備委員会の委員長には入植者全体から兵庫県出身の弓場為之助が推された。弓場為之助は兵庫県名塩村の村長を二期務めた人物である。
一年間の準備期間をおいて、会長、副会長を選挙で選んでいる。初代会長には長野県出身ではあるが、アメリカからの再移住者瀬下登が選ばれ、副会長には岡山県出身の石戸義一が選ばれた。なお、弓場為之助も石戸義一も「皇国思想」とは相容れないキリスト教徒であった。
アリアンサ移住地には、日本人移住地なら必ずといっていいほど祭られていた神社というものがない。戦前、神社を建立しようとする動きがあったが、否決されて結局実現することはなかった。
両書が描き出す皇国思想の普及を目的とする信濃教育会や信濃海外協会に果たしてこのような移住地がつくれるものだろうか。
一般にアリアンサ移住地という場合、この信濃海外協会が開設した第一アリアンサのほかに、鳥取海外協会と信濃海外協会が共同開設した第二アリアンサ、信濃海外協会と富山海外移民協会とが共同開設した第三アリアンサがあり、そのほかにも昭和二年に熊本海外協会が開設したビラ・ノーバ移住地がある。
昭和二年以後はこの四移住地を総称してアリアンサと呼び、最盛期には一千家族、五千人以上が住んでいたと言われる。
ビラ・ノーバ移住地だけは熊本県人だけで構成されたいわゆる熊本村であったが、これは昭和七年に経営が破綻し、国策会社・海外移住組合連合会(現地機関ブラジル拓殖組合)に吸収され、消滅した。
第二アリアンサ、第三アリアンサは第一と同様、混植である。
鳥取海外協会、富山海外移民協会は同県人だけを送り込んだが、信濃海外協会は一貫して全国からの移住者を受け入れている。
結果としてどの移住地も全県からの入植者が入り交じっており、長野、鳥取、富山県人だけが集まって入植することは出来なかった。
このため、鳥取、富山入植者からはいわゆる郷党的親睦思想による不満が続出し、複雑な背景は省略するが、鳥取海外協会は信濃海外協会と袂を分かち、のちに移住組合連合会に経営権を移管している。
富山海外移民協会も同様に経営権を移管、信濃海外協会だけが昭和六年以来、連合会と対立しながら孤立した道を歩むことになる。
こうした経過は、両書で引用されている文献を読めばわかることだが、両書ともこれにふれていないのは、読者に、アリアンサが長野県民だけの信濃村であるという印象を与えたかったからではないだろうか。