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「長野県の歴史」(山川出版社・1997年)および
「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店・2000年)
アリアンサ移住地の記述についての疑問

アリアンサ移住地はブラジル信濃村か

木村 快

三、アリアンサ建設の主体は日本力行会である

中村国穂のブラジル村と輪湖のアリアンサは別物

 「長野県の歴史」は資料1に見られるように、一九一九(大正八)年の「信濃教育会」に掲載された中村国穂のブラジル信濃村とアリアンサ移住地を直接結びつけている。
だが、アリアンサ構想は中村の死後、一九二〇年の六月、ブラジルのイグアッペ植民地で永田稠と輪湖俊午郎が出会ったことから始まったとされるのが定説である。
中村国穂の思い描いていたブラジル信濃村とは、イグアッペ植民地内に実現するはずだった幻の村である。

 紙面の都合で詳述できないが、イグアッペ植民地は定住移住論者青柳郁太郎が、桂太郎内閣や東京商工会の渋沢栄一らの支援で、大正四年にサンパウロ州政府から土地無償払い下げを受けて建設した初めての日本人大移住地である。
ところがこの移住地の入植者が集まらず、大正七年、日本政府の政策で移民会社主体の国策移住会社・海外興業に吸収合併されることになる。
当時日系社会最大の新聞、伯剌西爾(ぶらじる)時報編集長だった輪湖俊午郎は青柳の定住移住論の熱心な共鳴者であった。
輪湖は移住地が移民会社の食い物にされることをおそれ、移住者側の主体を強化するため、定住移住者募集のため急遽日本に帰っている。
長野県松本中学の出身だった輪湖は長野県へ行き中村国穂の協力を得て一二三家族を移住させた。その結果、イグアッペ植民地では長野出身者が多数派となり、長野県、とりわけ信濃教育会ではブラジル信濃村論が盛り上がったようである。

 だが、移住地の経営が海外興業に移り、国策移住地となると、輪湖がおそれていたように、営農政策、貸付渡航資金の返済問題、学校設置問題などをめぐって移住者と会社側との対立が起こり、紛糾するようになる。
そして住民側に視点を置いた論陣を張る輪湖は、ついに伯剌西爾時報を追われる。輪湖はやむなく自らイグアッペ植民地に土地を買い求め、農業者としてとどまりながら移住地改革を進めようとするが、これは必ずしも思うようにはいかなかった。
この体験によって、輪湖は国策移住のあり方に絶望し、独自の定住移住地論を展開するようになる。

 そのころ、永田稠は文部省の委託で、中南米における海外子弟教育事情の視察旅行に出る。中村国穂も大正八年、資料1の「ブラジル信濃村賛歌」を発表した後、イグアッペ植民地を訪問する予定であったが、折から流行したスペイン風邪に倒れ急没する。

 大正九年六月、イグアッペを訪れた永田は輪湖と出会うことになる。二人はこの時が初対面である。
期待していたイグアッペを訪ねた永田は、紛糾の続発する移住地の現状に深い失望を覚える。当時、イグアッペには広大な土地があり、サンパウロ州政府との契約期限内に新しい移住地を造成する必要があった。また、多くの長野県出身者もいたのだから、ここに信濃村をつくることは可能であった。しかし、輪湖はイグアッペとは絶縁する必要を感じていた。こうして、長野側が思い描いた信濃村の夢が破られた所から、新しい移住地の模索が始まる。

 その後、信濃海外協会による移住地建設が現実的になると、輪湖はイグアッペには見向きもせず、サンパウロを挟んで八〇〇キロの遠隔地に土地を探し求めた。国策移住地と決別する必要があったからだ。

信濃海外協会設立の発端

 もともと信濃海外協会の設立は長野県在住者が考え出したことではない。
すでにそれ以前、永田のすすめで一時帰国中の輪湖俊午郎が、東京を中心に「二十万円あれば、ブラジルに理想の移住地が出来る」と呼びかけ、歩き回ったことから始まっている。
輪湖は国策移住会社である海外興業が出稼ぎ移住を奨励するだけで、帰国には責任を持たず、定住地を持たない移住者は医療、教育など深刻な問題を抱えていることを告発している。
こうした問題を解決するには住民の自治を保証する定着移住地をつくらなければならないと主張して回った。しかし、成果は思わしくなく、新移住地の建設は時期尚早であったと、いったんは運動を断念し、輪湖はブラジルへ引き揚げることになる。
永田は輪湖を呼び寄せた責任上、せめて運動継続の芽を残すため、海外協会でもつくって輪湖へのはなむけにしようと考えた。(資料4参照

 海外協会という組織は海外に移住者を多く送り出している県で、海外事情の普及、移住者のバックアップなどを目的にした非営利の民間団体で、最初に生まれたのは一九一五(大正四)年の広島県植民協会(後に広島県海外協会と改称)で、この団体の設立には永田も協力している。
信濃海外協会が移住地を建設して以来、海外協会とは移住地を建設する組織と考えられるようになったが、それ以前は「せめて海外協会でも‥‥」という程度のイメージであった。永田は信濃教育会が五大教育目標の一つに「海外発展」を掲げていたから、この機に海外協会をつくれないかと考えたようである。

 小平氏は論文「郷党的親睦思想の移住政策と戦争」で、発起人の顔ぶれを見て、信濃海外協会の設立は「いわば、長野県全体が、国をもまきこみ総包みとなって海外発展・移植民を押し進めようと結集した陣容であった。」と主張しているが、これはそんな大げさなものではなく、海外絹市場に目を配っていた片倉製糸の今井五介が海外情報の収集という点で海外協会の設立に関心を示したということで、長野県側が積極的だったとは考えられない。

 永田が諏訪郡に出張中だった岡田県知事を追ったというのは、諏訪湖畔にあった今井五介の別荘で岡田知事に紹介されたということだろうが、出張中の知事が県庁へ帰る列車中で了承する程度のものでしかなかった。事実、その後の経過から見ても、岡田は今井の仲介で準備会に顔を出すことを了解した程度にしか考えられない。

 設立準備会も長野県で行われたわけではなく、東京・日比谷の陶々亭というレストランで行われている。今井の招待による食事会という形だったのではないか。
このとき輪湖俊午郎が司会をしたという記録が残っていることからみて、輪湖のブラジル事情報告、移住地建設論に耳を傾けたというのが実態だったと思われる。

 したがって、海外協会の設立準備も長野県側で進められたものではなく、永田、輪湖と、片倉製糸東京本社の宮下琢磨が進めている。永田も輪湖も、長野県出身とは言え、長野県在住者ではない。
永田はアメリカ帰りの日本力行会会長であり、輪湖はブラジルからやってきた一民間人にすぎない。長野県が主体となって、国をも巻き込む大事業にしてはあまりにお粗末すぎないか。

 信濃海外協会が設立され、一応、海外発展思想の普及ととともに、南米移住地の建設を事業目標に掲げる。初代専務理事は輪湖俊午郎である。輪湖はかねて準備してあった「南米移住地計画書」を提出し、二ヶ月後の船でブラジルへ帰っている。形の上では信濃海外協会ブラジル支部長として渡伯したことになっているが、協会から旅費が出たわけではなく、自分で移民監督の仕事をみつけ、移民監督としてブラジルへ帰ったのである。

移住地建設の実態

 総裁に座った岡田は移住地建設には全く興味を示さず、計画案を放置したまま熊本県知事に転任している。
当時の県知事は内務省から派遣される役人で、任期は一年か二年である。岡田の後任に山梨県知事だった本間利雄が赴任してくる。赴任に先立ち、永田は本間を訪ねて南米移住地計画」について陳情しているが、本間は乗り気ではなかったと書き残している。(「信濃海外移住史」信濃海外協会編・一九五四年)

 そして、一九二三(大正二)年の第二回総会で突然「移住地建設宣言」が発せられるわけだが、「両米再巡」(永田稠・一九二四年)や「信濃海外移住史」によれば、総会では当日午前中まで全くその気配がなかった。
昼食のとき、深い事情を知らぬ本間が、「こんな沈滞した空気で移住地建設などできるわけがない。協会は解散するか、それとも本気で取り組むのか決断すべきだ」と苦情をのべたらしい。そのときの永田と本間のやりとりの成り行きで、突然午後の総会で本間が移住地建設を宣言したことになっている。

 あわてた長野県関係者は、総会後とりあえず二十万円の募金を各市郡に割り当てるが、資金は全く集まらなかった。

 資料1資料2で問題にされているブラジル信濃村建設方式について「長野県の歴史」では詳しく述べられていないが、小平氏の「郷党的親睦思想の移植民政策と戦争」によると、資本金二十万円で五千町歩の土地を購入して二百戸を入植させる方式であり、二十万円の資金は全県民から集めることを意味している。

しかし、実際の南米移住地(アリアンサ)建設計画では長野県人を対象とした長野土地組合と、全国を対象とした南米土地組合という二つの受け皿を用意し、土地の配分は半々となっている。その結果、アリアンサの土地の八〇%を購入したのは全国からの入植者であり、長野県人は二〇%しか購入していない。

 資金の調達法についても、満州信濃村計画ではブラジル信濃村建設方式にならって、全県民三十万戸から集めることになっていたと言うが、事実は全く逆である。
小平氏によれば県知事、信濃教育会長に加えて国勢院総裁まで発起人になって国をも巻きこむ陣容ではじめたと言うのだから、建設資金は簡単に集まりそうなものだが、実際には資料5の通りである。
一九二三年五月に永田が土地購入交渉のためブラジルへ出発するまでに、資金拠出に応じた者はわずか七人、集まった金は一四、八〇〇円にすぎない。

アリアンサ建設は日本力行会の運動

 それでも永田が移住地の建設をあきらめなかったのは、もともとアリアンサの建設は長野県の要望によるものではなく、日本力行会のめざす運動だったからである。
ただ、この当時、民間の運動だけで海外に移住地をつくることは困難であり、永田としてはなんとしても長野県の名義がほしかったのである。
土地の配分を長野土地組合だけとせず、全国対象の南米土地組合を置いたのもそのためだった。
永田は日本移民排斥に揺れるアメリカでも力行会員を通してブラジルでの理想の移住地建設を呼びかけ、資金の募集を積極的に行っている。

 一方、輪湖も土地代理人のブラジル上院議員ロドルフォ・ミランダと交渉して三年年賦を認めさせ、あとは入植者へ土地売却した金で支払いを続ける自転車操業が可能と判断した。
しかし初年度の払い込みにはざっと七万円が必要である。永田の「両米再巡」によれば、南米土地組合で集めた金があるはずだと再三信濃海外協会に送金を要請している。
ところがやっと、土地契約の間際になって「二〇万円移住地は断念して五万円の範囲で決着せよ」と五万円が送られてくる。

 このとき、現地側で仲介にたったバウルー領事多羅間鉄輔は、外務省経由で長野県に「いったいどうするつもりか」と問いただしている。
このときの総裁は新任間もない梅谷光貞県知事だが、事情の解らないまま、急遽二万円を送金している。こんな状態であるから、土地を購入しても開発資金がない。
一九二四年十一月、ブラジル在住の北原地価造夫妻が、イグアッペ植民地から大工の座光寺与一夫妻、ブラジル力行会の青年を引き連れて開発を始めるが、輪湖は借金に飛び回っている。長野県から借りた二万円は、永田が帰国後、返却している。

 日本からの入植者受け入れが始まったのは一九二五(大正一四)年四月からだが、この年の入植者はわずか六家族一七人である。うち四家族は輪湖、北原地価造とともに移住地開発に従事する力行会員である。
この年の暮れになっても長野県で集まった金は十二万円にみたない。
これがアリアンサ移住地建設の実態であるが、果たしてこれが満州信濃村建設のお手本としてのブラジル信濃村建設方式と言えるのだろうか。

 第一アリアンサ移住地に限って言えば、長野県の名義を借りた永田稠の日本力行会による移住地建設であったと言っていい。
しかも輪湖俊午郎というブラジルの移住地問題を熟知している人物が陣頭指揮に立って初めて実現できた事業である。
移住地の名称を「ブラジル信濃村」としないで「アリアンサ移住地」としたのも、またそれまでは「植民地」と呼ばれていたものを「移住地」という新しい名称に変えたのも輪湖俊午郎だったと言われている。
もしブラジルを知らない長野県の役人が計画を立て、権力にものを言わせた事業だったとしたら、決して実現することはなかったはずである。
両書の著者らが主張するブラジル信濃村計画と、アリアンサ側に残る実態資料とのギャップは「タテマエ賛成、金は出さない。実行は日本力行会と輪湖にやってほしい。もし成果があがればそれをふりかざして満州移民計画に利用させてもらう」という長野県側の本音を如実に示している。

 アリアンサの資金募集はアリアンサの成功が国内で喧伝され、世間の注目浴びるようになった一九二七(昭和二)年三月時点でも二〇万円には遠く及ばない。実際の入植者も資料3の入植者県別一覧に見られるように、八〇%は全国からの入植者によって占められている。

 ところが、この昭和二年三月に帝国議会で法律第二五号「海外移住組合法」が成立し、海外移住組合連合会が一県一村移住地計画を打ち出すと、たちどころに全国に海外移住組合が設立され、設立の条件である二〇万円の資本金も即座に集められている。アリアンサの成功例を一村建設に利用できると踏んだからである。

 こうした歴史経過は、アリアンサの成功が国の移住政策に大きな影響を与え、利用されたということは言えても、アリアンサ移住地建設が国のお先棒を担いだ事業だったなどとは決して言えないはずである。この現実を両書の著者たちはどう見ているのだろうか。

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