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「長野県の歴史」(山川出版社・1997年)および
「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(大月書店・2000年)
アリアンサ移住地の記述についての疑問

アリアンサ移住地はブラジル信濃村か

木村 快

四、信濃教育会でブラジルに信濃村をつくれるか

 ここで、「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」のアリアンサについての記述にふれておきたい。この書物では新しい史実の発見と言うことでブラジル信濃村を取り上げているので、関連する記述は随所に出てくるが、代表的な二点をとりあげる。

 「(海外発展を根底に置き、皇国思想をよりどころとして)一九二一年、「信濃海外協会」設立に、信濃教育会が中心的役割を果たし、南米に「アリアンサ」入植の実績を上げた。」
 「義勇軍と信濃教育会」(資料6参照

 わたしたちの知る限りでは信濃教育会がアリアンサ移住地建設の中心だったことを示す資料があるとは考えられない。
信濃海外協会が設立されたとき、信濃教育会会長の佐藤寅太郎が副総裁に名前を連ねていることは事実だが、むしろ建設には消極的で、永田稠が土地購入のためブラジルへ渡った留守中、教育会から派遣されていた専任理事の藤森克は業務放棄の形で辞任し、長野県庁の一角におかれていた事務所はなくなっていたという記述が残っている。
副総裁は教育会長であっても、それはあくまで名義上のものにすぎず、当時、長野県ではまだ誰も信濃海外協会などと言う得体の知れない組織には関心を持っていなかったはずである。

 もちろん、アリアンサ移住地建設が成功したため、やがて時代の右傾化とともに、長野県にとっても、信濃教育会にとっても大変利用価値の高い組織になっていったことは事実である。
信濃海外協会にかぎらず、戦前の歴史記録はファシズムの社会で書かれたものであることに留意しなければならない。時勢に都合のよい建前が並べられ、不都合な部分は裏側に隠されている。

 「長野県の歴史」も「義勇軍と信濃教育会」も、教育会が中心になってブラジル信濃村建設に成功し、自信を持って満州信濃村建設を立案したという書き方をしている。はたして、皇国思想に凝り固まった教育会がブラジルに信濃村を建設することが可能だろうか。

 一九二〇年代のブラジルは白人が実権を持つ中南米の大国である。すでにアメリカでは日本人移民の入国が禁止され、ブラジル下院でも、ちょうどアリアンサの建設にかかる一九二三(大正十二)年にレイス移民法案と呼ばれる有色人種である日本移民を排除する法案が論議されている。一九三〇年代の日本が軍事力で傀儡(かいらい)国家をつくろうとしていた中国東北部(満州)とは根本的に事情が違う。移住問題を扱う以上、送り出し側の思惑だけでなく、受け入れ側の歴史事情も検討すべきである。

 アリアンサの建設が成功したのは、日本側のご都合主義的な計画によるものではなく、ブラジル側で長年移住者の問題と取り組んでいた輪湖俊午郎という人材があったからである。逆な言い方をすると、もし、アリアンサの経験を尊重していたら、あれほど無謀な満州移住を強行することはなかっただろう。

 輪湖俊午郎は一九三四(昭和九)年、日本の移住政策との戦いに破れ、アリアンサ移住地の理事を辞任し、アリアンサを去っている。このため、移住関係者には輪湖の業績を評価する者がなく、移住功労者としてブラジル移住史に名をとどめることもなかった。

なぜ海外移住組合法を問題にしないのか

 著者らは全くふれていないが、実はアリアンサ移住地が生まれてから四年後の一九二七年に、日本の移住政策は決定的な転換をとげている。
法律第二五号「海外移住組合法」の成立である。ブラジル移住はこのとき完全な国策となり、戦前移住者の七割にあたる一二万人がこれ以後、太平洋戦争の始まる一九四一年までの間に送り込まれている。
また、分村移住論が現実性を持ち始めたのもこの法律によるもので、新潟、宮崎、大分をのぞく全国各県で即座に海外移住組合が組織された。政府はその中央機関として海外移住組合連合会を組織、ブラジルに毎年八つの各県移住地を建設するという方針を掲げた。

 ところが、この一県一村移住地計画はブラジルに乗り込む早々に破綻している。
まず同じ政府機関であるサンパウロ総領事館が真っ向から反対している。理由はいろいろあるが、第一は、日本の移住組合が主権国家ブラジルにやってきて勝手に土地を購入したり、移住地を造成したりすることは不可能であること、よしんば土地を確保したところでブラジルの事情もわからないまま、各県が勝手に移住地をつくるなどということは無謀だということである。

 当時、移住事業の管轄は内務省社会局であったが、ブラジルをまるで自分の国の領土であるかのようにふるまう態度は、満蒙に日本人移住者を送り込むための前哨戦といった意図が透けて見える。
一県一村移住地計画はブラジルでは頓挫してしまったが、やがて拓務省の設置とともに、軍の力を借りて中国で強行することになる。

 ブラジルで立ち往生した海外移住組合連合会専務理事の梅谷光貞は、急遽輪湖俊午郎の助けを借りてブラジル拓殖組合という現地機関を設立、大移住地混植方式に切り替えている。
そして各県移住組合の非難を浴びながらバストス、チエテ、トレス・バーラスの三大移住地を建設し、移住者を到着順に入植させた。
国をあげての事業ですら、ブラジルで分村をつくることはできなかったのである。そして、この一県一村移住地を実現できなかったことが梅谷光貞失脚の原因となった。

 両書の著者達が、満蒙移住政策を扱いながら、この海外移住組合法の成立とそれに伴う移住政策の大転換を問題にしないのはなぜだろうか。おそらく分村移住の土台はこの法律によって準備されたはずである。

 海外移住組合法は主権の及ばない海外の移住地を保護するため、国内の産業組合法と同等の融資および助成を与えようとするもので、移住地の取得に対する低利融資、産業施設、病院、文教施設などへの助成金が支給された。
だが、肝心のアリアンサ四移住地は海外移住組合法の適用から除外されている。このため、信濃、鳥取、富山、熊本の各海外協会は深刻な経営危機に追い込まれ、熊本は破綻、鳥取、富山は経営権を移住組合連合会へ移管している。

 さらに、海外移住組合連合会(ブラジル拓殖組合)は昭和六年の浜口首相遭難事件を機に、首脳人事が一変する。
軍需産業のリーダー平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)が理事長の座に就き、専務理事には海外興業出身の宮坂国人が就任する。
ブラジルにおける移住政策も軍需物資の調達に重点が置かれるようになる。
熊本、鳥取、富山は連合会の傘下に統合されたが、信濃海外協会だけは移住地行政のあり方をめぐって連合会と対立、統合を拒否して昭和十三年まで独自経営をつづけている。
最後に統合に応じざるを得なかったのは、日中戦争開始後、ブラジル政府の日本人敵視政策が進行する中で、住民保護の観点からのやむを得ない屈服であった。こうした経過も、なぜか両書ともふれていない。

永田稠は当初から満州移民を志向していたか

 「ここで注目したいのは、幹事として活躍した永田稠の動向である。彼は七年間に及ぶ南北アメリカでの活動をしながら、満州移民への転回を主導していったのである。北海道での農業を体験し、日露戦争にも従軍した彼は、回想記の中で、「満州の天地自然と満州人とが私に言う可からざる環境を与えてくれた」(『国見するもの』)とのべている。」資料7参照

 「義勇軍と信濃教育会」の記述で全般に気になるのは、文献の引用の仕方である。 たくみに都合のよい部分だけを引用し、都合の悪い部分はわざと曖昧にしている。
この書物は、従来、長野県の教師が子どもたちを満蒙開拓青少年義勇軍に積極的に送り出したのは昭和七年の「教員赤化事件」弾圧の反動だったとする説に対して、すでにそれ以前から信濃教育会による海外発展思想の普及がすすめられており、とりわけ、ブラジル信濃村の建設が大きな役割を果たしていたからだとする新説を打ち出している。

 そして、満州移住への主導者として永田稠の名をあげているわけだが、永田がどのような経歴の人間であるかについてはわざと曖昧にしている。たとえば「七年にわたる南北アメリカでの活動をしながら、満州移民への転回を主導していったのである。」と書き、右翼の大陸浪人といったイメージで描き出している。

 永田はキリスト教系のボランティア団体「日本力行会」の会員として、一九〇八(明治四一)年から六年間、アメリカ・カリフォルニアで移住農民の支援活動をしていた人物である。
特にこの時期のアメリカは日本人移民排斥運動のさなかにあり、異文化圏への移住がどんな困難を伴うものであるかを身をもって体験した人物である。
一九一四(大正三)年に帰国し、二代目力行会長に就任するが、日本力行会は全国的な組織であり、長野県で活動していた人物ではない。
帰国当時、郷里が長野県諏訪であったため、信濃教育会から海外事情の講師に招かれ、以後信濃教育会と関係を持つようになった。信濃海外協会設立に当たっては当然、信濃教育会に働きかけたであろうし、大きな期待を持っていたと思われる。
アリアンサ移住地建設については信濃教育会に裏切られるわけだが、その後、専務理事に教育会の西沢太一郎を引き出している。
やがてこの西沢太一郎が中心リーダーになることで、初めて信濃教育会が信濃海外協会の主導権を握る組織になったと言える。

 昭和七年以後、永田稠が満州移住にかかわっていったことは事実だが、信濃海外協会設立当初から満州志向だったとする断定には疑問がある。
ここでは、永田が海外協会設立当初から満州移民を主張していた証拠として「国見するもの」の一節をあげている。
しかし、このエッセイは太平洋戦争の始まった後の昭和十八年に出版されたものである。出版年代を明記しないで、協会設立期の主張であったかのように見せかけるのは公正ではない。

 満州移住がはじまると、永田が満州を知る人間として一定の役割を果たしたことは考えられる。
永田が日露戦争に従軍したのは終戦時期であり、彼の軍務は戦後処理であった。戦闘員と違って中国農民との接触が多かったようで、そのことが中国の風土に対する親近感を持たせたようだ。
しかし、除隊後、永田が選んだ道は満州ではなく、力行会員としてのアメリカ移住である。大正三年に永田が帰国したのは、二代目力行会会長に指名されたからであり、本人の希望で帰国したわけではない。

 永田がアリアンサ移住地の保護政策を実現させるために片倉製糸の今井五介や二大政党の一つであった政友会を利用しようとしたことは事実である。
そしてここでもまた海外移住組合法の成立に利用されながら結果としては完全に裏切られている。
もともとアリアンサ建設運動は従来の国策移住批判を根底にした運動であり、それほど単純に軍部の満蒙政策に迎合していたとは考えられない。

 対米戦争へと向かう情勢の中で、キリスト教団体はさまざまな政治的圧迫を受けることになる。
永田は日本力行会という組織を抱えていく上で複雑な立場に追い込まれ、政治的妥協もさけられなかったと思われる。
日本力行会が戦時中、どのような立場に置かれていたのかという事情も併せて見る必要があるのではないだろうか。
永田の長女忍さん(一九九九年没)および、当時の力行会関係者の証言によれば、昭和七年、長野県の教員赤化事件に関連して日本力行会本部は再三家宅捜査を受けており、長野県茅野にあった力行農業訓練所の多田支配人が逮捕されている。モスクワ大学出身のマルクス主義者だったためである。多田は池袋警察で服毒自殺している。

 また、日本力行会は独自に満州力行村を建設しているが、この移住地は積極的に中国人との交流を持ち、終戦後は中国人の協力を受けて全員無事に帰国している。
長野県全体を満州移住に向かわせた政策を論ずるのなら、貴族院議員今井五介、代議士の佐藤寅太郎、津崎尚武らの果たした役割をこそ明らかにする必要がある。

 「義勇軍と信濃教育会」は永田が満州移住の主導者であったとする説明に、信濃海外協会の第二回総会で永田の満州移住政策が本間総裁によって一蹴されたと書いているが(資料F参照)、これも事実ではない。この第二回総会こそ「南米移住地建設」を宣言した総会である。永田は初代総裁の岡田に無視されたブラジル移住地の建設をなんとか本間総裁の口を通して宣言してもらいたいと、あらゆる努力を傾けた結果、ついに実現したのが、この「南米の一つあるのみ」という宣言なのである。

 移住地建設宣言総会であることを伏せて、あたかも通常総会で、永田の満州移住地づくりが総裁によって一蹴され、やむなく拓務省が設置されるまで待たねばならなかったという書き方は完全な資料の歪曲である。

おわりに

 日本の歴史書に対して抗議することは勇気のいることだが、アリアンサ住民、広くはブラジル日系人にとってアイデンティティにかかわる大事な問題である。
アリアンサ側に残る歴史も戦前のものが中心であるから、現時点から振り返ると、今のうちに見直しておかなければならない点が数々あると思う。
だが、それには母国側の協力なしには不可能なことである。今一度、アリアンサの歴史を見直していただけないだろうか。
二十万人以上の移住子弟が日本の産業にかかわっている時代である。同胞を送り出した国として、移住史そのものを見直していただけないものだろうか。

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